メルカリに売られないプレゼントの選び方

(※急いでいる人は太字だけ読んでください)

竹内まりやも歌い始めているが1年で最大のギフトシーズンが今年もやってくる。メルカリをはじめとしたフリマアプリの普及により「いらないプレゼントの見える化が爆発的に進んだ結果、昨年は怨嗟の声があらゆる方面からさまざま聞かれやや胸が痛んだ。そのころ(具体的には24日の夜)僕は何をしていたかというと帰り道に我慢できず大を漏らしていたがそれはまた別の機会に語るとして、今回はプレゼントの選び方について復習してみるとしよう。そうしよう。

その前に、プレゼントとはプレゼントである以前にコミュニケーションであるという基本は忘れずにいたい。つまり、プレゼントが喜ばれるかどうかというのは、結局は"あげる人"と"もらう人"との関係性に帰結する。しかし、同時に、人間同士の関係性というのは曖昧で反転しやすいものだ。ツボをおさえたプレゼントは時として、オセロのようにマイナスの印象を一気にプラスに変え得るすごい力を持つ。

以下は持論かつ私見だがプレゼント選びの軸を未だ持てていない人の参考になれば幸いだ。

プレゼントの基本は"3S"

(※数字とアルファベットで物事の基本をこじつけるやつを一度やってみたかった)
相手に喜ばれるプレゼント選びには、3つの"S"を意識するとよい。

・Surprise

予定調和ではないか?

・Superior

"受け取る人にとって"上質なものか?

・Story

物語を語れるか?

の3つだ。このどれもが欠けても"嬉しいプレゼント"にはならない。1つずつ解説していこう。

・ Surprise

サプライズである。一応説明しておくと、サプライズとは「ポジティブな動揺」「うれしい驚き」のことである。

これは「プレゼントは相手を驚かせる形で渡さなきゃダメ」とか「レストランの店員に話を通してデザートのタイミングでバラの花束を持ってこさせろ」とかそういう話ではなく、「一連の贈答行動のどこかで意図的に予定調和を崩そう」ということだ。

人間は予想外のできごとに直面すると、緊張し、目の前に起きた異変に集中するようにできている。つまりSurpriseはプレゼントに対する感度を最大化することに繋がる。しかし、結果として喜んでくれれば好意が倍増するが相手を落胆させてしまえば失望が倍増という諸刃の剣だ。確実に喜んでもらうためには、残りの「Superior」と「Story」をしっかりおさえることだ。

3Sの中で、Surpriseを満たすことは最も難易度が低い。なぜなら、「プレゼントをあげる」という行為そのものが既に予定調和を外れているケースが少なくないからだ。したがって、社会通念上プレゼントを渡すことが当たり前の関係性・シチュエーションでない限りは、既にSurpriseについてはクリアしているとみなしてよい。

それでは、「社会通念上プレゼントを渡すことが当たり前のケース」について考えてみよう。ここでは、「クリスマスに、恋人の女性に対して男性がプレゼントをあげる場合」と仮定しよう。

方法はいろいろとあり、相手がフラッシュモブを喜ぶタイプの女性であれば好きなだけ派手なサプライズを仕掛ければよいが、そうでない場合は「物量を増す」のが無難ではなかろうか。

簡単に言えば、「本命のプレゼント」にたどり着くまでに「プレゼントの子供」を次々と開封させるように仕向けるのである。大きめの箱や紙袋を開けると、いくつかの小さな箱(子供)と中くらいの箱(本命)が入っているような作りにするとよい。上級者なら意表をついて、中くらいの箱ではなく小さな箱の中に指輪などの本命を仕込むのもいいだろう。

大体の目安として、「本命」と「子供」の費用配分は5:1くらいが妥当だと思う。たとえば予算が3万円だとして、2万5,000円を「本命」に、5,000円を「子供」に費やす。「子供」の数は3~5つくらいがいいだろう。「本命」はおのおの考えてもらうとして、「子供」には多少ベタでも邪魔にならず広く好かれているものがよい。若い女性に、ということであれば、ロクシタンのハンドクリームや百貨店のパティスリー(どこでもいい)のマカロン、1,000円くらいチャージしたスターバックスカードなどがオススメだ。この3点で大体4,500円くらい。

  

そして最後に本命のプレゼントと対面するのだ。気をつけるべきは、どんなに僅かでもいいからテンションが上がる「子供」を選ぶこと。ガッカリな小物が続いた後にまともなプレゼントをもらっても「小物の分の金をこっちに使えよ」としか思われないからだ。

リスクを避けたければ普通に渡そう。プレゼントはそれ自体がちょっとしたSurpriseである。

・Superior

次にSuperior。スーペリアと読むが発音はどうでもよく、「上等な、上質な」という意味であるが、「高価なものを渡せ」という意味ではない

プレゼントの質を決定づけるのは価格の絶対値ではなく、プレゼントを受け取る人の日常生活における相対的な上等さである。これは結構大事なのでゆめゆめ忘れてはならない。

具体的に言うと、たとえば文房具好きの人へのプレゼントに万年筆を渡すとして、その万年筆は普段その人が買っているものよりも1~2ランク上のものを選ぶことが原則だ(例外は存在し得る)

「買うつもりだったもの」よりも「欲しいけど買うにはためらってしまうもの」をもらう方が嬉しいのは感覚として理解できるだろう。この微妙なニーズを満たすプレゼントを選ぶ上でSuperiorの原則が役立つ。

さて、実は上記の万年筆の例には落とし穴があり、文房具好きで万年筆をいくつも持っている(であろう)人に万年筆を贈るのはSuperiorを満たしづらくハードルが高い。そもそも万年筆の価格相場が高い。

しかし、ノートなら、鉛筆なら、と考えてみよう。万年筆に適した高級紙を使ったモレスキンのノートなら3,000円台、鉛筆の最高峰といえるファーバーカステルのギフトセットも4,000円台で最高級品が手に入る。これならきっと喜ばれるはず。ユニクロのセーターと同じ値段で貴族並みの文房具をプレゼントできるのだ。"上質さ"とは価格ではなく品格であるということがよく分かる。

 

よって、予算に限界がある場合は「価格を落とす」のではなく「予算内で高級品を買えるアイテムを選ぶ」という選択をするのがよい。

ただし、いたずらに高級品を選べばいいというものでもなく、あくまで受け取る人がその価値を理解できる範囲であることが前提だ。「最高級品」ではなく「普段その人が買っているものの1~2ランク上」を選ぼう、と先述したのはそういうわけである。

・Story

最後にStoryについて。ストーリー、つまり物語だ。はっきり言ってStoryが一番重要である。Storyに比べれば他の2つは前座

プレゼントにおける「物語」とは、言い換えれば"自分"が"その人"に"このモノ"を贈ることの必然性に他ならない。たとえ選んだプレゼントがセンス抜群、SurpriseとSuperiorを絶妙に満たしていたとしても、「え、なんでお前がこれをくれるの?」と思われたら終わりである。

なぜなら、人がプレゼントを通して受け取るのは「モノ」ではなく「モノ」の背景にある物語だからだ。「モノ」を贈ることだけがプレゼントならば、最良のプレゼントは常に現金やamazonギフトカードになる。インタビューの謝礼やよく知らない親戚の子供への合格祝いなんかならそれもアリだろうが、少なくとも贈り手になんらかの「伝えたい気持ち」があるのならStoryは決してないがしろにしてはならない。(結果として現金等が最良の選択になることはある)

たとえば、恋人からもらう「手編みのマフラー」には「あなたが寒さをしのげるように」「あなたの為だけに時間と手間暇を使いました」という背景がある。美しい物語だ。しかし、これがよく知らない人から贈られると、途端に不快な粘度を帯びてくる。

このように、プレゼントの帯びるStoryは「贈る人」「贈るモノ」「もらう人」を変数として変化するため、常に個別のケースに応じて検討する必要がある。

思うに、プレゼントを選ぶのがうまい人は、このStoryの組み立てが巧みなのだ。相手のパーソナリティや状況を敏感に察知し、自分との距離を測り、最適な強度で自分の好意を演出する……。

そのセンスは一朝一夕で身につくものではないので、ここでは、少なくとも"ハズしはしない"Storyの組み立て方を考えてみよう。自然、失敗から学ぶことが近道になる。

Storyを読み違えた例を3つ考えてみた。

「好きな子にティファニーのネックレス(2万円)をプレゼントしたら怖がられた挙句メルカリに売られた」

「憧れの先輩がゲーム好きと知ったので誕生日にNintendo SWITCHをあげたら引かれた」

「恋人にサマンサタバサのバッグをプレゼントしたのになぜか一度も使ってくれない」

どれもよく聞くような話だが、仮にこれらのプレゼントがSurpriseとSuperiorの点では喜ばれるはずのものだったと仮定して、なぜ悲しい結果に終わったのかを考えてみよう。

■ケース1: 好きな子にティファニーのネックレス(2万円)をプレゼントしたら怖がられた挙句メルカリに売られた

「お前から2万円は重いわ……」パターンだ。

この場合、"贈る人"と"もらう人"のStoryをモノの値段がぶっちぎってしまっている

プレゼントには、財布事情とは別にその人にかけていい予算の上限が存在する。目安の金額はあるが、Storyの観点からも導き出せる。

基準になるのは相手の金銭感覚もあるが、より重いのは贈り手の普段の金遣いである。たとえば1日の食費が1,000円の男性が2万円のネックレスを買った場合、20日分の糧と引き換えにその人へのプレゼント代を捻出したことになる。また、1人4,000円の飲み会の会計を「高いなー」と言っている男性の場合、「高い飲み会5回分」をプレゼントに費やしたということになる。

好きな男や彼氏にプレゼントされる分にはうれしいだろうが、知り合い程度の男からこれだけの好意を示されるのはキツい。贈られた女性にとっては「私のことが好き」以外にプレゼントの説明がつかないからだ。つまり告白と同義の意思表示をしながら告白そのものを回避しているように見えるし、当然告白をOKする段階まで親交を深められていなければ拒否以外に選択肢がない。

職場や学校などオフィシャルの場で会う知り合い・同僚へのプレゼントはランチ1回分、プライベートでも遊ぶ友人へのプレゼントは飲み会1回分くらいの値段にしておくのが無難だろう。

ただ、ここで気を付けておきたいのは、違法行為が介在するか赤の他人でもない限りは「プレゼントを贈る」という行為そのものが間違いになる関係性はほぼないということだ。「あんまり仲良くないのにプレゼントくれてキモい」という陰口は悲しいことに日本全国で1日100件くらい発生しているがそれは「プレゼントがキモい」のではなく「チョイスと渡し方がキモい」のである。

■ケース2: 憧れの先輩がゲーム好きと知ったので誕生日にNintendo SWITCHをあげたら引かれた

「俺お前にゲーム好きなんて話してないんですけど!?」パターンである。

割とこのケースは多い。"もらう人"と"モノ"のStoryは整合しているが、その2点を結ぶ線上に"贈る人"のStoryが不在なのだ。

相手が欲しがっているものをあげるのはプレゼントのコツ以前の基本だが、自分の欲求について、自分が教えていないはずの人が詳しいのは不気味である。相手の立場に立って少し考えれば分かりそうなものだが、意外と盲点になりやすい部分なので注意してほしい。

これも気味が悪い理由はケース1と同様で、「自分のことが好き」以外に説明がつかないからである。人の口に戸は立てられないので、多少近い位置にいればその人が何を欲しがっているかくらいは調べればわかる。キューピッド気取りの友人が親切心を働かせて「あの先輩、Nintendo SWITCHほしいらしいよw あげたらw」とか言うかもしれない。先輩もそれを予想できるかもしれない。でもやってはいけない。それ告白と一緒だから。

このプレゼントの目的はたぶん、"告白そのもの"ではなく"告白の勝算が見える程度まで仲良くなることの足掛かり"くらいものだろう。手段と目的をはき違えてはダメである。

■ケース3: 恋人にサマンサタバサのバッグをプレゼントしたのになぜか一度も使ってくれない

「趣味じゃねえんだよな」パターンとなる。

コスメやファッションアイテムでは特に顕著で、ブランドやアイテムが特定のアイデンティティに強く結びついていることは多い。

これは相手に対する観察不足というより、贈り手のアイテムに関する知識不足が招く側面が大きい。"贈る人"と"モノ"を結ぶStoryが弱いうえに、"もらう人"と"モノ"の間のStoryもないがしろにされてしまっている、一番よくないパターンといえる。

誰だって自分の興味がある分野では細かいジャンルの棲み分けにも詳しいものだ。MICHAEL KORSもサマンサタバサもDIESELも同じデパートの同じフロアに置いてあれば同じようなバッグに見えるかもしれないが、それらはHTML5Pythonjava scriptくらい違うし、長歌と俳句と都都逸くらい違うし、ACミランガンバ大阪とブラジル代表くらい違う。

モノに対する知識さえある程度あれば、あとは相手に寄せるだけだ。人間を見るのはモノを見るよりいくらか簡単である。男性が女性にプレゼントするならば、男性目線の「女子へのプレゼントに外さない〇〇」みたいな情報を見るよりも、「〇〇な女子が持ちがちな■■」みたいな、女性目線で同性をイジるような情報を見たほうがいくらか真実に迫れるだろう。一番早いのはその人と仲のいい女性に聞くことだけど。


具体例を挙げるとキリがないので、Storyを満たしているかチェックするための項目を作った。適宜活用してほしい。


なぜ……

私が

あなたはどんな属性で、相手にとってどう思われているか。自分が普段まったく見聞きしないようなモノを選ぼうとしていないか。詳しい人(お店の人でいい)に聞くか、せめてネットで一通りの知識を得てから買おう。

あなたに

プレゼントをあげる相手はどんな人か。その人がそのモノを使っているイメージは浮かぶか。または、その人が興味を持っていたり、既に愛用しているアイテムに近い領域のモノか。

この値段の

あなたと相手の関係性から見て不自然な価格のモノではないか。目安として同世代の異性の場合、顔見知り程度なら500円未満、言葉を交わす程度なら1,000円未満、雑談ができるなら3,000円未満、2人で食事に行ける間柄でも最初のプレゼントは1万円未満に抑えよう。

このアイテムを

プレゼントはその人が明確に価値を認識し得るモノか。その人が一度でも自分との話題に出したモノ、あるいは出したモノに近い領域のモノか。

このようにして

渡し方は自然か。普段のコミュニケーションと違うアプローチで渡そうとしていないか(渡すために呼び出すなど)。誕生日や行事以外の場合、「〇〇のお礼」など建前はあるか。

……渡すのか


まだ書きたいことはあるけど、とりあえず"3S"を伝えられたのでよしとする。

この記事は一応、普段「プレゼント」という行為になじみがない人に向けて書いている。

最初に「プレゼントはプレゼント以前にコミュニケーションである」と書いたけど、コミュニケーション力が実践を通してでしか成長できないように、プレゼント選びのセンスもまた理論だけでなく実践を積まなければ磨かれない。プレゼント上手になるにはまず、本を借りたお礼や仕事を手伝ってくれたお礼なんかの、安価で気軽なプレゼントから始めてみることだ。

それから、コミュニケーションを悪用すると嘘や洗脳につながるように、プレゼントも相手を操るための応用が可能である。破産させるほど客を入れ込ませるホストやキャバ嬢をみているとよくわかると思う(キャバ嬢はポールスミスのハンカチを実に巧く使う)

プレゼントを贈るうえで一番大事なのは、"自分の気持ちを伝えきる"(ただし、相手が受け入れられる程度に)ことだ。伝えたい気持ちのないプレゼントは自分も、自分が次に贈るプレゼントも空虚なものにする。

よいクリスマスを。

夜の飯田橋と銭湯、あるいは川底の街

日曜日だったけど日程の動かせない仕事があり、午後から夕方まで働いていた。仕事を終え、飯田橋でカレーを食べながら僕は、「今日は銭湯に行くしかない」と思っていた。

日曜夜の飯田橋は人影もまばらで、閑古鳥の鳴く鳥貴族以外にはほとんど居酒屋も閉まっており、どことなく閉園したテーマパークを思わせた。

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冷え込む夜だった。平日は酔客や学生であふれる通りはがらんとして冷たい風に吹かれるがまま、巨大商業施設「サクラテラス」の近未来的なビルは夜の底から遠くを見渡すように沈黙して立っている。僕はどこか深い川の底を思い浮かべた。冷たい水の流れの中を泳ぎながら、川岸の大きな木を見上げているようだった。

夜の飯田橋が川の底だとすれば、カレー屋「YAMITUKIカリー」はウナギの住処のように、ビルとビルの間をくりぬくように存在していた。バー風の店内は奥まで続くカウンター席のみで構成されている。客は誰もいなかった。

僕はここでバターチキンカレーを食べた。

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昨日ひどく飲酒し、二日酔いを引きずったまま半分眠ったように業務をこなしていた僕は、このカレーを食べて初めて人間としての活動を送ろうという気になった。とはいってももう夜と表現して差し支えのない時間だ。昨日の今日で酒を飲む気にもならない。そもそも明日も仕事だし。あと外はすごく寒い。ならば、

銭湯に行くしかない。

カレー屋を出て夜の川底を泳ぎ、地下鉄のホームに潜り込み、膨れた腹を抱えて僕は家路を急いだ。

銭湯のことを考えながら帰宅して、銭湯のことを考えながらコートを脱ぎ、銭湯のことを考えながらデニムを脱ぎ、銭湯のことを考えながらスエットを履き、銭湯のことを考えながら手を洗って、「山岸」と名前の書かれた赤いスイミングバッグ(多摩美の学祭でもらった)にタオルと替えのパンツと肌着と財布を入れ、ユニクロのコーチジャケットを羽織って僕は家を出た。

東京の公衆浴場は460円が入浴料だが、近所の銭湯は100円追加でスチームサウナを利用できる。どうにも寒くて風邪を引きそうなので、受付のおばあちゃんに「サウナをお願いします」といって560円払い、サウナ利用者専用のリストバンドをもらった。後ろの入り口からは、受付のおばあちゃんに「寒いですねぇ」と笑いかけながら背の低い中年の男性が入ってくるところだった。

服を脱いでロッカーに突っ込み、ボディタオルと洗顔料だけを持って浴室に入る。今日は空いていた。さっきの人の好さそうな小さいおじさんと、身体を洗いながらそのおじさんと歓談している肌の白い爺さん、それに、炭酸泉に浸かっている山から下りてきた熊のようなおじさんの3人だけだ。

洗い場で身体と髪と顔を洗って、ケロリンの桶で湯をかぶり、立ち上がって桶と座椅子を元の場所に戻す。奥には「本日の薬湯」と「炭酸泉」の2つの湯舟があり、ゆっくりと歩んでまずは向かって左側の「本日の薬湯」に入る。人が3人入ればいっぱいの、サイコロ状のコンパクトな湯舟だ。湯の種類は「ラベンダー」だったり「イングリッシュローズ」だったり日替わりだが、今日は看板に何も書いていない。

名前の分からない緑色の湯の中に脚を入れ、身体を沈めると、頭頂部のところできつく締めた蓋がゆるむような気がした。飯田橋で吸い込んだ最後の空気を押し出すようなため息が出た。高い天井にくり抜かれた八角形の湯気抜きの、誰も覗けないような場所にある窓が見えた。

視線を戻すと、湯舟の隅に、ふやけたゆずの皮がビッシリ入った大きめの洗濯ネットがくくりつけられて浮いているのに気づく。僕はそばまで行って、ネットに顔を近づけてみた。白い紙に一滴だけ垂らした黄色の水彩絵の具のような柚子の香りが、湯気に混じってかすかに漂った。

少しの間じっとしてから薬湯を出て、隣の炭酸泉に浸かった。湯の中からざばぁと出て、裸体をひたひた歩かせて隣の湯にまた浸かると、自分が何か呑気な水棲動物になったような気分がする。泡がぼこぼこ湧き立つ湯舟の中で、僕は何となく脚を曲げて体育座りをした。

脱衣所からは、体格のいい丸坊主の青年が入ってくるところだった。太い眉と細い目、形のいい頭は、よく手入れされた地蔵を思わせる。彼は白いタオルを1枚だけ持っていて、洗い場に座るとケロリンの桶いっぱいに湯をためて頭からかぶった。

修行みたいだな。

その時ふとサウナの存在を思い出し、僕は再び湯からざばぁと上がって、出入り口の横に備え付けられているスチームサウナを目指した。三畳くらいの広さのサウナは、出しっぱなしのシャワーの水音で満たされている。ヒーターで熱した石にお湯をぶっかけ続けて蒸気を生み出しているのだ。タイル張りのサウナの中はそこはかとなく市民プールの更衣室みたいな匂いがする。備え付けの砂時計をひっくり返し、蒸気でひたひたに濡れた人工大理石の腰掛けに座った。お湯の中で開いた全身の毛穴からだくだくと汗が出てくるのを感じながら、僕はうつむいてフゥゥと大きく息を吐いた。

3分を測る砂時計が2回ひっくり返って、サウナを出た僕はシャワーボックスに入って全身にぬるま湯を浴び、炭酸泉のところまで歩いて、隣接した水風呂にゆっくりと入った。足先からふくらはぎ、ふくらはぎからもも、ももから尻、尻から腰。全身が水に浸かると、逃げ場を失ったサウナの余熱が髪の毛から蒸散していくような気がした。

30秒くらい浸かってから再び炭酸泉に入ろうとしたとき、さっきの地蔵のような青年がまさにお湯に身を沈めたところだった。彼はそのまま壁にもたれかかり、ぼこぼこと泡立つ湯舟の中で、くしゃくしゃに丸めた新聞紙のように破顔した。ジャングルをさ迷い歩き、3年ぶりに風呂に入った人ならこのような表情をするのかもしれない。

僕はそれからサウナと水風呂に2回ずつ入り、薬湯にもう一度浸かって浴室を出た。体を拭いて着替えてから銭湯入り口の待合所に行くと、地蔵の彼はソファに腰かけ、コーヒー牛乳の瓶を片手に、備えつけの週刊文春をテーブルに置いて読んでいた。

僕は牛乳を買って、彼の隣に座った。

同じ水に浸かった生き物がいることに、なぜか静かに救われていた。

ベランダにオランウータンがいた

夢の中で僕は、昔家族と住んでいたマンションの部屋にいて、開けっ放しのベランダに面した窓からは、オランウータンの赤ちゃんがハイハイで侵入してくるところだった。

 

僕は慌ててオランウータンの赤ちゃんを両手で抱え、足でがらがらと窓を開けてベランダに出た。柔らかい毛の生えたオランウータンの赤ちゃんは聞き分けのいい子犬のようにおとなしく、僕の手の中で不思議そうに辺りを見回していた。

 

斜め下の部屋のベランダにオランウータンがいた。色素の薄い茶色の毛が生え、手足はロープのように長い。ゆったりとした動きで、ベランダの柵に絡みつくアイビーの葉を指先で撫でていた。

 

僕は両手に持った赤ちゃんを、そのオランウータンに見えるように掲げた。オランウータンは驚き、その長い両腕を柵越しにこちらへ伸ばしてきた。

 

僕も柵越しに目一杯体を乗り出し、両腕を伸ばし、すると両手にいる赤ちゃんも両腕を伸ばした。3人分の腕の長さがついに1フロア分の距離を乗り越え、赤ちゃんは母の腕に取り付いた。救助用のクレーン車のように、長い腕がゆっくりと折り畳まれながら遠ざかっていった。

 

 

目を覚ました僕は20分くらいかけてのそのそとベッドから脱出し、洗面所でうがいをし、服を脱ぎ捨ててシャワーの栓をひねり、お湯が出てくるのを待った。手早く髪と顔を洗って化粧水を顔面にぶつけ、髪を乾かし、服を着てリュックを背負って家を出て、満員電車に乗って会社に行った。

 

オフィスビルの中のトイレで用を足しながら、僕はオランウータンのことを考えていた。

 

夢の記憶というのは記憶保持の優先順位がものすごく低いらしく、ほとんどの夢は起床からほどなくして忘れられてしまうという。

 

でも僕の中にはたしかにオランウータンの親子がいた。

 

僕が起きてすぐに彼女らのことを忘れてしまったとして、それでもどこかであの親子は生き続けるのだろうか。もう2度と見ることはないかもしれない夢の中で、三宿のマンションのベランダで、グリーンカーテンを愛でながら。

 

オランウータン。

 

あの優しい目。