インターネットでの争いについて(踊るのをやめてしまったサボテンに捧ぐ)

もうずいぶん昔の出来事のように思えるが、2月の中頃にサボテンが踊るのをやめた。

この頃、東京では長い冬の出口が見え始め、季節が変わるのを予告するように、何日かに一度は潤んだ南風が吹く朝があった(ワニもまだ生きていた)

足音が聞こえるほど近くなった春を待ちながら、ふいにタイムラインに現れたこのツイートを見て、僕は胸を締め付けられた。泣き笑いのような顔になった。

サボテンは踊るのをやめてしまったのだ。

古い友人の訃報を告げられたような気持ちだった。表面的にはおもしろがってはいても、心のどこかで皆が実感をもってこの事実を受け止めざるを得なかったから、川崎氏(@_rotaren_)のこのツイートもここまで拡散されたのではないかと思う。本人の意思はともかくとして(他意のない軽口が本質を突いてしまうことはしばしばある)

一口に「インターネットでの争い」といっても色々だけど、真っ先に思い浮かぶのはコメント欄やリプライツリーに連なる短文の数々だ。その内容の正誤、態度の良し悪し、品格の高低は様々だし、真剣に交わされる議論や教養に裏打ちされた意見交換(つまり、本人同士からしてみれば争いにはあたらないやりとり)も中には含まれる。でも、ズームアウトすると全体としてはやっぱり「インターネットでの争い」に見える。

では「みんながインターネットで争ってばかりいる」ことの何が悪いのかというと、別に悪いことではない。件のツイートでも悪いとは言っていない。ただ、「みんながインターネットで争ってばかりいる」からサボテンが踊るのをやめてしまったという事実だけが厳然と告げられている。そして、「お前のせいです」と指摘される。とどめに「あ~あ」と落胆される。

「インターネットでの争い」について、僕は「内容や当事者の態度はともかくとして、とにかくコメント欄やリプライツリーがいろいろな意見で繁忙している感じ」と雑に定義した。しかし恐らくこの雑な定義でないとしっくりこないのが、踊るのをやめたサボテンの話から浮かび上がってくる「争い」の正体であり、知らずして僕たちから古い友人を奪い去ったものでもあるのだと思う。

当たり前だけど、世の中の人はそれぞれに異なる意見や価値観をもって暮らしているのであり、コミュニケーションが発生する以上は、相手と異なる意見や価値観を表明することもまた避けられない。改めて書いてみると本当に当たり前の話だが、踊るのをやめてしまったサボテンについて思いを致すためにはここから書き始めないといけない。

世の中の人が「異なる意見や価値観をもって暮らしている」と書いたが、これは例えば「辛いカレーが好き」な人と「甘いカレーが好き」な人がいるという話ではなくて、「いつも食べているカレーが辛いか甘いかなんて生まれてこの方考えたこともなかった」人もいるわけだ。

辛いカレーが好きな人と甘いカレーが好きな人は、嗜好は違えど「カレーが好き」という点では共通しているわけだから、カレーについて活発に意見を交わすことができる。時には、辛いカレーが好きな人が頭ごなしに甘いカレーを否定して喧嘩になることもあるだろうし、辛いカレーが好きというだけで甘いカレーが好きな人からいわれのない人格攻撃を受けた人がその事実を告発し、甘いカレーが好きな人に批判が集中することもあるかもしれない。もしも「辛いカレーが好き」というだけで命を奪われるようなことがあれば、これはカレーに興味があろうとなかろうと広く報じられて多くの人が知ることになるだろう。

「インターネットでの争い」とはつまり、この辛いカレー派と甘いカレー派との間で交わされるコミュニケーションが、大勢の人が行き交う場所で行われている状態を指す。カレーが辛いか甘いかなんて考えたことがないような人も、彼らの議論に簡単にアクセスできるし、なんなら参加もできる。インターネットはそれを可能にした。

「インターネットでの争い」というが、当人同士が本当に争っているかどうか、これはサボテンが踊るのをやめてしまった事実に対してはあまり意味を持たない。また、世の中で意見や価値観が対立しているのは辛いカレー好きと甘いカレー好きだけでは当然なくて、無数の摩擦や対立がある。それ自体は当たり前だし、健全なことだ。ただ、種々のコミュニケーションがあまりにも人目につく場所で行われていると、カレーの話をしているのにたまたま通りがかった人が「スプーンで米を食べるとは何事か」みたいなことを言ってきたりする事態がしばしば発生する。

繰り返すが、この状態が良いか悪いか、という話ではないのだ。様々なコミュニケーションが大通りで行われるようになったことで、今まで一部の人の間でしか共有されていなかった問題意識が広く知られ、陰で苦しんだり悲しんだりしていた人が救われるようになったこともあるだろう。例えば甘いカレーが好きな人が、辛いカレーが好きな人から差別的な扱いを受けて深刻な不利益を被っていることが分かったとしたら、それはカレーに一切関心がない人であろうと、差別的態度の是正を働きかける必要がある。なぜなら甘いカレー好きが受ける差別を見過ごすことは、その人が猫派だったとして、自身が犬派から差別的な扱いを受けることを肯定することになるからだ。そうして世の中は自ら良くなっていく力を強める。「インターネットでの争い」も捨てたものではない。

全てはコインの表裏で、技術の進歩は進歩についていけない人を生んでしまうし、ある問題を解決しようとすると、不可避的に別の問題が発生する。それでも、全体的に、合計値として良くなっていくために社会は変わり続ける。コミュニケーションのあり方だってそうだ。「インターネットでの争い」の裏には、それよりももっと多くの、「インターネットでの愛」「インターネットでの友情」「インターネットでの幸せ」などがあるはずだ。

でもサボテンは踊るのをやめた。

そのことについてはよく考えないといけない。

見て!サボテンが踊っているよ
かわいいね

もちろん現実にサボテンが踊ることはないのだが(ないはずだ)、言われてみれば僕たちは、踊るサボテンを見つけて「かわいいね」と笑い合っていたことがあったような気がする。

そんな瞬間を記憶からたぐり寄せてみる。それは例えば、海沿いのテラスで食事をしていたら泳ぐウミガメの姿を見つけたり、散歩していたら猫が木登りする瞬間に出くわしたり、電車の中で会いたかった人と再会したりした時と同じ気持ちなのかもしれない。だからこんなにも、サボテンが踊っているのが懐かしくて愛しいのかもしれない。

ウミガメを見つけることも、猫の木登りに出くわすことも、会いたい人と偶然に再会することも、人生からなくしてしまうのは簡単だ。ずっと別のことに気を取られていればいいのだから。

インターネットによって、僕たちは本当に多くのことを知るようになったし、多くの人と話せるようになった。それは多分、全体として、世界を良くしたと思う。

でも、きっともう、インターネットの大通りではサボテンが踊っているのを見つけることはできない。それは僕のせいだ。そして、あなたのせいでもある。

もしもあなたが、この広いインターネットのどこかでサボテンが踊っているのを見つけたら、そのことをただひっそりと喜んでほしい。人混みでサボテンは踊れないのだ。

- - - - -
筆者: すなば
→Twitterアカウント

「権力」の気配と丁寧な暮らし

COVID-19が直接あるいは間接的に自分や身の回りの人の生活を制限するようになってから、Twitterで呟くことがずいぶん減った。呟こうと思うことが何一つ「本当でない」気がしたのだ。

普段は何食わぬ顔でツイートしている生活や風物やカレーのことについて、そのことよりももっと大事な、言及すべきことがあるような気がしてならなかった。誰から求められているわけでもないけど、その何かを知らんふりしてツイートボタンを押すのは不誠実な気がした。

何に対して「不誠実」だと感じているのかは、僕自身もよくわからない。でも、「もっと大事な、言及すべきこと」が何かはなんとなく分かる。このところ否応なく肌に感じる「権力」の気配についてだ。

平常時は、自分の暮らしや大切な人たちの幸せ、いつか行きたい場所や週末の予定、自分が美しいと思うものや善いと思う行いなどに集中していればよかった。そうしてコツコツと日々を営むことが、自分の求める世界を創ることになると確信していた(この記事で書いたように)。

でも今、自分の暮らしや大切な人たちの幸せ、いつか行きたい場所や週末の予定、そういったものを考えるとき、否が応でも視線の先に横たわるのは巨大な「権力」の影だ。より端的に言うならば、政治・政策・国家といったものが、いま直接的に暮らし方や生き方を規定している。

今や世界中がそんな状況だ。その原因は感染症であって、「権力」にはない。また、この非常時において、経済活動に対して「権力」による統制が必要なのは疑う余地がない。だから良いとか悪いとかではないのだけど、とにかく、こんなに身近に「権力」の気配を感じながら暮らすことはそうそう無いだろうと思う。

だからこそ、「権力」に対して覚えた違和感があるとすれば、それも大切にしないといけないと思うのだ。

自身の築き上げた美しい生活が「権力」の庇護下にあり、その「権力」を監視する義務が時として自身に生じることを、正面から受け止めるのは残念ながら難しい。僕たちのほとんどは、そんなこと誰にも教わっていないからだ。

知識として三権分立や、国会運営の流れや、選挙の仕組みについては学ぶ。でも、自分たちの暮らしや行動が「権力」の下に規定されていることを、直接的に教わる機会は少ない。自由に暮らすことすら「自由に暮らすこと」を「権力」に保証されてこそ成り立っていること、生活は空気のようにそこにあるものではなく、「権力」と押し合う様々な力の均衡の上に成り立つ、ひとつの状態に過ぎないことを。

そしてその「権力」はしばしば暴走することを歴史が証明している。「権力」とは勢いよく水の噴き出すホースみたいなものだ。ちゃんと掴んで離さずにいれば、車も洗えるし畑に水もやれる。しかし油断して手を離すと途端に暴れまわって自分を濡らす。大事な靴が台無しになる。苦労して描いた絵をめちゃくちゃにされる。

政治というか、選挙について以前僕はこのように書いた。

ここでも僕は、「政治家」や「国会」「国家」ではなく「権力」という呼び方をしている。

何も国政だけではなく、「権力」は至るところに存在している。職場にも、学校にも、家庭の中にも、乗り合わせた電車の中にすら。その「権力」が自らに対してどう振る舞うか、僕たちは自分の幸せについて考えるのと同じくらい注意深くなければいけない。そして、手綱を握る努力をしなければいけないのだ。やっぱり。

疫病が天災であって誰か一人の故意ではないように、「権力」もまた人ではない、もっと巨大な何かだ。だから政治家や政策を批判するとき、それは「権力」の振る舞いに対する反発や違和感であって、特定個人への恨みつらみであってはいけないと思う。もちろん、政治家が「権力」のコントロールを職分とする以上、その働きぶりには責任が生じる。コントロールがまずければ顧客であり関係者である国民からクレームがくるのは当然だ。いわれのない個人攻撃と、自身に提供された役務への不満の表明は全然違う。

毎日誰かが誰かを批判する声ばかりで嫌になるという話も聞くけど、「権力」の暴走を抑えて自分の暮らしを守るための反発も、個人への批判に置き換えられたやり場のない怒りも、その中には混在している。それらを一緒くたに「気を滅入らせるネガティヴな空気」として処理してしまうのは、表現者がやってはいけないことのように感じる。

僕が名乗っている文筆家とは、文章を書き、それが読まれることに価値を見出している人間のことだ。その一人として、周囲から聞こえてくる声に耳をふさぎ、生活やカレーについて呟き続けることは違うと思った。だからこの文章を書いた。

僕の、個別の政策や政党に対しての個人的な考えはここでは表明しない。ただ、「権力」に対してのあり方をここに伝えたい。生活は「権力」によって守られるべきものだ。同時に、「権力」から守らなければいけないものでもある。

一人ひとりが日々を美しく送ることが、最良の平和活動だと僕は本気で思っている。でも、その日々の隣には「権力」があることを忘れてはいけない。「権力」とは「権利を振るう力」のことだ。その権利の中には、自身の生活や生き方すらも制限してくるものもある。生活を見つめること、丁寧に暮らすということは、その生活の枠組みに張り付く「権力」の気配を注意深く観察することも含まれる。

東京の桜は咲き切って、美しい布を翻すように新緑へと変わった。散歩する犬も心なしかみんな嬉しそうな顔をしているような気がする。無印良品のカレーはいつ食べてもうまい。本当は毎日、そういうことだけを考えていたい。多分、そういうことだけを考えていないと自分がもたない時もあるだろう。でも、僕はしばらく目も耳もふさがないことに決めた。今は「権力」の振る舞いを注視すべき時だと思うからだ。「権力」が自分をどうしたか、よく知る人に対してどんなことをしたか、しっかり見て覚えておかないといけない。

巡る季節をいつくしみ、旬の食べ物を喜び、大切な人との関わりを愛する、その幸せを得るために必要なことは何か。変わらない日常を愛する人ほど、考えるべきなのだろう。これはイデオロギーではなく、個人の幸福と生活についての問題だ。

- - - - -
筆者: すなば
→Twitterアカウント

春がすぎれば

朝起きてシャワーを浴び自転車の手入れをして、スーパーマーケットに出かけて買い物をしてそれからずっと家にいた。映画を見て料理をして掃除をしても時間は余る。文章を書こうとするが、どれもこれも自分が書くべき文章のように思えず消してしまう。

部屋の窓からは桜の木が見える。満開の桜は、咲き飽きたようにせいせいと風に散ってゆく。渡り鳥の群れのように飛翔する花弁のうちのいくつかが、ベランダに降り立って沈黙する。過ぎる季節は見送るほかない。いやにじりじりと春が去っていく。

実際のところ、自分たちの身に何が起きているのか分かっている人のほうが少ないんじゃないだろうか。分かっているのは、いくつかの事実だけだ。それはニュースであったり、自分自身が現に家の中で時間を持て余していることであったりする。

ルールのわからないゲームに参加してしまったような気分だ。どうすれば勝ちなのか、いつまで続くのか、そもそも勝敗なんてあるのか、終えたときには何を得られるのか……。

でも考えてみれば、これは人間の生活そのものでもある。皆、生まれたときからわけのわからないゲームに参加している。誰かが「勝った」と叫べばその人が勝ったようにも思えるが、「あいつは負けだよ」と誰かが言えばたしかに負けたようにも思える。ようするに、勝つも負けるもないのだ。投げたコインが裏か表か、その結果を皆がそれぞれ解釈しているだけだ。

いま一つ確かなことは、桜が散っているということ。それだけのように思える。桜が全て散ったら、緑が美しい季節がきてほしい。その次は雨のなか紫陽花が咲いて、やがてぎらぎらと青い夏の空になってほしい。今、それくらいなら信じられる。