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記事を3つ書く間に彼女ができた

タイトルが全てなのだがそういうことになった。

comebackmypoem.hatenadiary.com

この記事を書いたときの僕はまぁ一応それなりに落ち込んでおり、それなりに反省することもあり、そしてそれなりに疲れていたのだが当時の自分にはそれが気づけなかったみたいだ。散財して新しい服を買うことは、昆虫や爬虫類の脱皮に似ている。新しい服を着ることは古い服を脱ぐことだからだ。彼女が褒めた服、彼女を喜ばせた服、彼女のために着た服。

新しい服を着た僕がどうしたかと言うと、上の記事に書いてあるとおり合コンに行った。そして今の彼女と出会った。もっとも、その時着ていた服はKITSUNEじゃなかったけど。よく覚えてないがグレーのシャツの上に5年前買った福袋に入っていた黒いデニムジャケットを着ていたような気がする。

彼女と僕は付き合って間もない(マジで間もない)が最近聞いた話では、どうやら僕との関係を進展させることを彼女は友人たちから反対されていたらしい。曰く、「すなばさんは絶対遊んでるからやめといたほうがいいよ。絶対浮気するから」と。

その原因は彼女と出会った合コンにあった。合コンという場は、呼び方が嫌ならお食事会でもなんでもいいのだが、男女が少なからぬ期待を持ち貴重な時間を割き節約すれば数日間は暮らせるくらいの金銭を投資して集う場所だ。僕は基本的に、自身を貶めるようなことをされない限りは他人に対して最大限の敬意を払うようにしている。したがって合コンの場にあっては、「どんなに自分が興味を持てない女性でも、最低でもこの場を楽しんで帰ってもらう」ということは自分に対して課している。それが合コンに女性を呼び立てた男の責任というもので、この責任は受発注側のどちらであっても男全員が負うべきであり、ついでに言えば女性にもそのマインドは持ってほしいと思っている。

とはいえこれは僕が勝手に持っている美学なので人に強制するのはよくない。だから男性メンバーに「どんな[censored]がきても絶対に盛り上げて帰ろうな」などと言ったことはなくその日も言わなかった。この日は3:3の会だった。そして僕以外の2人――銀行員のA氏とインフラ系会社員のB氏――は、あまり会話をリードするタイプではなかった。

合コンにおいて全力で避けるべき事態は着席直後10分間に起こる沈黙であり、ここさえ乗り越えればあとは惰力でなんとか場が回る。僕は滔々とおもしろい話ができるわけでも底抜けの明るいノリを持っているわけでもなかったから、当たり障りのない話題で会話の口火を切って質問をし適度に相槌を打ちリアクションをしながら両脇の男性陣に話を振っていくというオーソドックスなMCスタイルで和やかに会を進行させていたつもりだった。つもりだったのだがこれがまずかった。

蓋を開けてみれば、その合コンで一番人気だったのは銀行員のA氏だった(これは後に彼女から聞いた話だ)。理由を聞いてみると「浮気しなそう」「優しそう」「まじめそう」だからとのことだ。B氏と僕の評価はどっこいどっこいで要するにその会は「A氏が当たりで他はスカ」というのが女性陣の総合評価だったようである。

で、一生懸命に会話を回していた僕はと言うと「なんかチャラそう」「遊んでそう」「浮気しそう」という評価だったらしい。僕はこの話を聞いたとき本当に驚いてしばし言葉を失った。普段の仲間内や合コンではむしろ僕は「おとなしい」「文学青年」「落ち着いている」「オタク」などと言われる方だったからだ。

この時僕は「合コンの相対性」という概念に思い至った。

僕は普段、編集者として働いているため、必然的に飲み会や合コンもメディアに近しい業界の従業者や、その界隈の男性たちとの会合に慣れた女性と行うことが多い。

生き馬の目を抜くマスコミ業界において僕の会話を回すスキルなど蚊の馬力に等しく、広告代理店やテレビ局、外資系保険会社の営業、証券マン、商社マンなどは別次元のコミュニケーション力というか強引さというか"パワー"としか表現のしようのない何かを持っており、そのパワーに日々さらされ続ける女性たちも相応の耐性を獲得していた。そんな中で僕のような人材は「根暗なクリエイティブ職」に位置しており、それでもその根暗さというか良く言えば思慮深そうな雰囲気に興味を持ってくれる女性はいる。そうしてパワー系との差別化を図りつつ互助関係を築きながら共存共栄の道を探っていた。

しかし、戦場が変われば戦い方も変わる。

僕を件の合コンに招いてくれたのはインフラ系のB氏(大学時代の同級生)であるが、女性側の幹事とは埼玉の街コンで知り合ったらしい。女性側の幹事の職業は地元の中小企業の一般職だった。そこで僕は思い至るべきだったのだ。常住坐臥自信満々にコミュ力とステータスで殴りあっている男女の合コンとこの合コンとを同一視するべきではない、ということに。

たぶん、その場にいた女性陣は、パワー系の連中に口説かれたことがない。ゆえに、その合コンを支配するのはパワーの論理ではない(※"パワー"とは単純な腕力のことではもちろんなく、「社会的地位」「経済力」「将来性」「交友関係」などもろもろの指標を指す。簡単に言うと中高とクラスの人気者で早慶東大一橋あたりの国内トップクラスの大学に入りそのまま大企業に入社みたいな分かりやすいエリートコースを歩んでいる奴らの中でも女性関係に積極的にコミットする者が主にパワー系に分類される)

パワーの論理なき合コンでは、代わりに「無害さ」「優しさ」が評価指標となっていた。いかに経済的リスクがなく、扱いやすく、自分を傷つける恐れがないか。それらを加味した上で初めて、「好きなタイプ」という概念が表出してくる。

いかに和やかであろうとも、「会話を回す」という行為自体が彼女たちからしたら嘘くさく、リスクの高い男のすることなのだろう。もっと言えば、「会話」は「回す」ものという発想そのものがチャラチャラした遊び人の世界の話でしかないのだろうと思った。ゆえに「遊んでる」「絶対に浮気する」という連想が僕に対しても成り立つ(この「遊んでる」とか「浮気する」とかの発言については思うところあるので別の機会に書く)

たぶんあの合コンの正解は「みんなで巨峰サワーを飲みながら子供のころ行った動物園の思い出話をする」とかそういうものであったはずだ。在りし日の教室内で自然発生していたような会話をするべきだったのだ。その延長線上に彼女たちの幸せはあるのだろう。

このように、合コンにおける力関係や評価指標が参加者の属性によって変わることを「合コンの相対性」という。

そんな合コンで出会ったにもかかわらず僕を選んでくれた彼女は、言葉少なで会の最中もあまり会話を交わさなかった。でも「おもしろいからまた会いたいと思った」のだそうだ。

そして改めて2人で会ったとき、あまりに僕がしゃべらないので驚かれた。その場には僕と彼女しかおらず他に楽しませるべき人もいないので自然なことだ。彼女が沈黙を苦にするタイプでないことはわかっていたし、だから僕も彼女に惹かれた。「普段はこうなんだよ」と言って、彼女が「そうなんですか」と返事をし、その後また3分くらい黙る。思い出したようにどちらかがとりとめのないことを聞く(昨日何時に寝たんですかとか)。それを繰り返していくうちに、気づけば何度も会っていた。僕が思いを伝え、彼女は5日ほど考えてぽつりと返事をくれた。

彼女がなぜ僕を選んだのか、僕はまだ知らない。

自由律俳句は俳句じゃないと思っている人へ

自由律俳句、特に無季自由律俳句は、「ただの文じゃん」「俺でも書ける」という批判にさらされることが多い。

韻文をかじった人の中には自由律に対しても理解がある人が多いが、それは詩の文脈に自らを置いているからいわば「詩をかぎ分ける嗅覚」のようなものが育っているためで、その手の文芸に触れる機会の少ない大多数の人にとっては自由律俳句がただの短文だと勘違いされるのも無理からぬ話である。

しかし、はっきりと言っておきたいのだが、自由律俳句は俳句である。

俳句を俳句たらしめているものは何だろうか。

・5/7/5のリズム
・季語

ほとんどの人はこの2つを挙げるだろう。

ところで、もともと俳句は"連歌"という七五調の言葉をつなげていく遊びの"発句"つまりしりとり遊びで言うところの「俺からいくよ! じゃあ、しりとりの"り"!」という口火を切るための気軽な韻文詩が独立したものだ。

5/7/5の定型は、いわばその時の名残である。連歌は5/7/5→7/7→5/7/5→7/7→5/7/5→7/7……と人を変えながら果てしなく和歌を続けていく遊びであるため、和歌の5/7/5/7/7から最初の3節が残ったというわけだ。

そして俳句に限らず韻文詩、つまり"歌"には、日常と同じ語彙を扱いながら、日常の言葉遣いや文脈とは離れた世界に人々を連れて行ってくれる力がある。

これも連歌の光景を思い浮かべるとわかりやすい。さっきまでぺらぺらと普通の言葉でしゃべっていた仲間たちが、5/7/5の発句をきっかけに、改まってリズムのある言葉をつなげていく。それは、リズムのある言葉が"歌"になり、日常の言葉から切り離された世界を形作る様子だ。

これはなんだかカラオケに似ている。

いわば俳句とは、カラオケの1番だけを歌うようなものだ。

メロディーが決められた曲の1番を、それぞれ好きな歌詞を当てはめて歌い、そのできを披露しあうような営みだ。

季語について話す。次の句を見てほしい。

妻の遺品ならざるはなし春星も

右城暮石

字余りの句だがそれは置いておいて、この句の季語は「春星(しゅんせい)」つまり春の星である。

寒さが緩んだ柔らかな夜の空気。潤んだ膜のような暗天に瞬く宝石のような星すら、妻が自分に遺したもののように思える。そういう俳句だ。深く愛する人を亡くした男の、越えてきた悲しみの大きさや愛の深さをしみじみと感じる美しい句である。

たった18字からここまでの情景を感じ取れるのは、季語の持つ世界の広がりのおかげだ。

手元にある角川学芸出版の歳時記を見ると、「春の星」の項にはこう書いてある。

春の星は、柔らかい夜気に潤みつつ、しきりに瞬く。

青空に映える夏の入道雲を見ると小学校の夏休みを連想する人が多いように、季語には一定のお約束というか、その言葉が内包する無数の情景とストーリーがあるのだ。

この句が「夏の星」でも「冬の星」でもなく「春の星」でなければいけない理由は、その星を「妻の遺品ならざるはなし」と断定する心情の微妙な危うさにある。

妻の死に悲嘆している風でもなければ、完全にその悲しみを乗り越えて前を向いている風でもない。「あの星も妻が自分に遺したものなのだ」と感じる、半ば死を受け止めつつあり半ばではまだ妻の姿を夢想している、そんな情景は「春の星」以外にあり得ないのだ。

ちなみに「夏の星」は歳時記でこう解説されている。

夏は高原や海岸で星空を仰ぐ機会も多く、星にも涼しさが感じられる。

爽やかである。昼間の暑さがやわらいだ夏の夜、見上げる星は美しく清冽だ。「妻の遺品ならざるはなし夏星(なつぼし)も」もいい句だが、なんだか爽やかで別れをすっぱりと整理した男の姿が浮かぶ。傍らに再婚相手すらいそうだ。

そして、「冬の星」はこうである。

冬は大気が澄み、凍空の星の光は鋭い。

身を切る寒さと、澄んでどこまでも暗い空、刃物のように鋭い星の光。妻を想うには少し悲しすぎる情景ではなかろうか。「妻の遺品ならざるはなし冬星も」。だめだ、思いとどまれ、と言いたくなる。

ちなみに秋には「星月夜」や「天の川」という季語があるが、ここまでくると妻の遺品と断定してしまうには少し華美すぎる気もする。満天の天の川を指して「妻の遺品ならざるはなし」と言っている男はちょっと自分に酔いすぎだ。「妻の遺品ならざるはなし天の川」「妻の遺品ならざるはなし星月夜」。うん、これは王子様の句である。一人の凡夫が、夜闇の中静かに妻を悼む。そんな悲しくも美しい情景はやはり、「春の星」以外では描けない。

ここまでの話を踏まえると、俳句は大まかに言って次のような営みであると再定義できる。


「決められたメロディーで、お題を1つ選んで替え歌を作る遊び」


ここでやっと自由律俳句の話になるのだが、自由律俳句のフロンティアを切り開いた男たちはむしろ、俳句に芸術性を求めた結果として"定型の放棄"という答えに行き着いたのだ。

簡単に言うと、「替え歌には表現に限界がある。俺たちは自分で曲も作る」という発想である。

さらに彼らはこの発想にたどりつく。「お題を必ず選ばなければいけないのもナンセンスだ。"お約束"に頼らずとも、言葉それ自体に意味と情景が宿る。お題など必要ない」。

たしかに季語の中には「木流し」や「竹婦人」など現代の生活習慣と乖離したものもあるので、俳句に親しんでいない人がこれらの言葉に情景を読み取ることは難しい。

この辺の経緯は、偉大な俳人の名前とエピソードを出しながら資料を引用しつつ書くこともできなくはない。しかし今回は概要だけにとどめておこう。かなり乱暴なたとえ話をしている自覚はあるが、自由律俳句とは俳句の文芸としての純粋さを極限まで追究したがゆえに生まれた形式なのだ、ということが伝われば十分だ。

さて、自由律俳句のシンガーたちは替え歌(定型)こそ放棄したものの、メロディー(韻律)自体を放棄したわけではない。彼らは定型としての普遍性を捨て去った代わりに、自分の心を動かした情景そのものが持つ、言うなれば"現前するリズム"を捉えることに腐心した。

ゆえに彼らの句にはみな、1つひとつ固有のリズムがある。リズムを持たない散文であるところの「ただの文」とは、この点において決定的に違っている。

なんとなしに理解が深まったところで、おそらくは日本でもっとも有名な自由律俳句を鑑賞してみよう。

咳をしても一人

尾崎放哉

「咳」は冬の季語なので無季自由律俳句ではないのだが、おそらく放哉は季語を入れるつもりで「咳」という言葉を選んだわけではないだろう。それは彼の境遇を考えれば容易に想像のつくことだが、ここで言及するのはやめておこう。

この句のリズムは

咳を/しても/一人

の3/3/3だ。ぽつ、ぽつ、ぽつと虚空に溶けて消えていくようなメロディーだ。一瞬だけ胸と喉を震わせる咳の音が、この断片的なリズムと重なる。意味とリズムが重なり合い、寂静の情景をそこに作り出している。

この調子でもう何句か放哉の自由律俳句を鑑賞しよう。

花火があがる空のほうが町だよ

この句はどんなリズムだろうか。

花火があがる/空のほうが/町だよ

花火が/あがる/空のほうが町だよ

どちらでも読める。そしてどちらでも美しい句だ。このように、時として自由律俳句は、リズムの選択を読み手に委ねる。時を越え、詠み手と読み手の響き合いがそこに生まれる。

次はこれ。

あらしがすつかり青空にしてしまつた

この句には季語もない。無季自由律俳句である。リズムの解釈は自由だが、僕は「あらしがすつかり/青空に/してしまつた」の8/5/6で読んでいる。人によっては8/11だったり4/4/5/6だったりもするだろう。

季語の持つ膨大な情報量に頼ることもできず、リズムも慣れ親しんだものではない。

だからこそ自由律俳句は、作品の鑑賞者に深く深く入り込んでいく。

そこにある言葉は、古来から日本人が営々と育んできた美意識、伝統、そんなものとは一切関係のない生の言葉だ。俳人が一瞬の心の動きを捕らえて句帳に叩きつけた鮮烈な情景だ。ただその情景は、鑑賞者の記憶の中にある「あらし」や「青空」の像と結びついてのみ、よみがえるのを待っている。

どこまでもストイックで、どこまでも純粋で、どこまでも人間本位な詩だとは思わないだろうか。

熱くなってしまったので次の句にいこう。

うそをついたやうな昼の月がある

静かで絵画的な句である。昼の月に"うそ"を感じてしまう気持ちになったこと、一度は経験のある人が多いだろう。

打ちそこねた釘が首を曲げた

悲しい。首を曲げた釘はもう役には立たず、打ち損ねた徒労感と自分へのかすかな諦めが漂う一句だ。句の持つ悲しさが、首を曲げた釘という光景を見つめる"こちら側"の気持ちとして再生される。

いつしかついて来た犬と浜辺に居る

僕はこの句のどうしようもなさがとても好きで、「全て嫌になって公園に犬」というアンサーソングを詠んだことがある。

どうだろう。

僕の主な主張は「自由律俳句は俳句の中の俳句である」というものなのだが、少なくとも「ただの文」でないことはなんとなくわかってもらえただろうか。

俳句には、季重なりや季違い、切れ字、一物仕立て、取り合わせ、などなど様々な型や作法がある。逆に言えば、これらの作法のもつ力、定型の美しさを利用してすぐれた作品を生み出すことができる文芸だ。(※これは決して、俳句が簡単だと言っているのではない)

一方で、自由律俳句には何のルールもない。しかし、ルールがないから「ただの文」に成り下がるような半端な文芸でもない。

そこには、自分の心を動かした一瞬の衝撃が鳴らす音を捉えるため、それ以外のすべてを放棄した獣のような詩人の魂があるのみだ。

男子校出身者の恋と最後の戦場

shiho氏のこの記事を読んで非常に思うところあり、男子校出身者としての所見を述べてみようと思う次第だ。

note.mu

うんこを漏らした記事でも触れたが、僕は中高6年間、都内の一貫校に通っていた。男子校である。うんこを漏らした翌週はからかわれこそされたが、いじめに発展するようなことはなかった。その時、僕の腹の底を「共学だったら死んでいた」という根拠のない確信が冷たく横切ったのを覚えている。

男子校の環境については、異性の目がない(それどころか存在すらない)ため「ヤンキーもオタクも対等で仲がいい」とか「いじめがほとんどない」とか巷間でいろいろ言われているけどまぁ大体当たっていると考えていいのではないか。しかしそれは一定の偏差値水準を越えた男子校に限られる話であるとも思う。

要は「(育ちのいい)ヤンキー(ぶってる生徒)と(なるべくしてなった)オタク」との間に、「女に良い格好したい」という至上命題が絡まない限り対立の起こる要素が少ないということなのだ。対等というよりお互いにあまり関心がないという方が正しい。

それに、ヤンキーというかイケメングループには大体にしてお抱えの天才ハッカーが1人はいるものなので、スマホやゲーム機のトラブル、違法動画のダウンロードや他校の女子生徒のアカウント特定などは在野のオタクの手を借りるまでもないのである。

話がそれた。

shiho氏は冒頭の記事において、女子高出身者についてこう語っている。

……これは完全に偏った自論だけど、女子校というのは「なんでもひとりでできる女」と「なんにもひとりでできない女」を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンみたいなものだ。
(中略)
男子に対する免疫ゼロな女子校出身者にこのふたつの要素を掛け合わせると、

・男子に対する免疫ゼロ×なんでもひとりでできる女=ヒモと付き合う
・男子に対する免疫ゼロ×なんにもできない女=彼氏に依存する

みたいな感じになる(極端な例だけど、近いケースは恐らくすごく多いです)。

女子高出身者の特質については僕もかなり思うところあるのだがそれはひとまず置いておいて、このように男子校出身者について語るとしよう。

男子校という環境は良くも悪くも生徒の個性を野放図に伸ばしてしまう傾向があるため、オタクはとことんオタクになるし、上位1%のイケてるグループはセブンティーン誌のDK座談会とかに出たりして大学卒業後も続く華やかな交友関係の基盤を築き、他方では幼少の頃からの趣味である昆虫採集に情熱を傾け続け趣味が高じて養老孟司と仲が良くなったりする生徒もいる。

そんな中で浮き彫りになってしまうのが、「自分という存在の限界」だ。

男子校は、生徒の個性を伸ばしやすい環境である一方で、「個性を自覚していない生徒」に対してはけっこう過酷な環境になり得る。

共学では(共学を知らないので想像上の共学だが)学年のトップクラスの地位を築けるような、「調子がよく」「空気を読むのがうまい」生徒は、しかしそれだけでは男子校では埋没してしまうのだ。男子校は「一芸こそ価値」という空気感が支配的で、イケてない生徒でも何か突出したスキルや打ち込んでいるものある生徒が一目置かれる。この「一目置かれる」という概念が重要で、男子校はメンツの世界なのだ。

僕の代にも、何もいいところはないが「意地でも水泳の授業を受けない」という一点でのみ全校生徒の尊敬を一身に集めている生徒がいた。強面の体育教師に「水がトラウマなんです」と言い張り30分粘った末に全授業の欠席を認めさせ単位も取得したことは今でも語り草だ。ちなみにトラウマというのは嘘である。そしてなぜ彼がそこまで水泳の授業を固辞したのか、理由は今でも誰も知らない。

また話がそれたが、つまり男子校では早々に自分の限界を思い知ってしまう生徒が一定の割合出てくる。shiho氏風に表現するなら、

「マイワールドを構築した男」
「凡庸を自覚してしまった男」

を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンなのだ。

この2種類の男が恋愛においていかに厄介な存在であるか、勘のいい方はすでにお気づきだと思う。

前者は、ブレない自分の世界観を確立してしまったがために恋愛で苦戦することが多い。森見登美彦の小説『太陽の塔』に出てくる一場面の引用をその説明に代えたい。

 飾磨は女性と付き合ったことがある。
 彼は塾講師のアルバイトをして生活費を稼いでいたが、塾生徒の女子高生をつかまえた。品良く言い直せば、職権を濫用してたぶらかしていてもうたのである。
(中略)
 梅田のヘップファイブに赤い観覧車がある。私はまだ見たことがなかったが、それは毎日若き男女を載せてぐるぐる飽きもせず同じ場所を回っているという話だった。飾磨は彼女と大阪へ出かけたついでに、音に聞くその観覧車に乗りに行った。
 順番を待ちながら、彼は少しそわそわしていた。二人の間に交わされた言葉は想像すべくもないが、はたから見れば普通のカップルに見えたろう。やがて順番が巡ってきて、彼はゴンドラに乗り込んだ。彼女が続いて乗り込もうとすると、彼は厳然とそれを押しとどめた。
「これは俺のゴンドラ」
 毅然とした台詞を彼女に残して、彼がぐるりと梅田の空を一周して戻って来たとき、彼女はもういなかった。これは本当の話である。

これは極端な例だが、それがたとえ女性受けする世界観であったとしても、どこかで必ず衝突あるいはすれ違いの時がくる。その時彼女は、謎の自信にあふれた彼の決めつけに愕然とするだろう。長くなるのでこの種の男性について詳しく紹介するのはまたの機会に譲ろう。

さて「凡庸を自覚してしまった男」についてである。

彼はエキセントリックな生徒が多い男子校で可もなく不可もない学校生活を送ってきたためか、思いのほか共学の大学に進んでも順応が早い。共学出身者に交じって一見楽しそうに学校生活を送ったりする。就活も順当に終わらせることが多い。

普通に彼女もできる。

そして普通に結婚するだろう。

しかし、彼の腹の底には大変高い確率で「失われた青春」という爆弾が眠っている。

これはつまり、打ち込むべきものが何もなかった高校時代の雪辱を果たさんとするソルジャーの魂だ。

部活も、バンドも、映画も、昆虫採集も、女の子も、何もなく、個性を輝かせる生徒を横目に見ながら、なんとなく楽しくへらへらと学校生活を送ったことへの復讐心である。

彼は傍観者であったがゆえに満たされない功名心を抱えている。生涯それを抱えたまま人生を終えることもあるだろう。しかし、多くの場合どこかでそれは爆発する。

「大学デビュー」という形で爆発させられた人は幸運だ。男子校でのいわゆる"陰キャ"が大学に入った途端髪を茶色に染め活動内容が不明なサークルに入り飲み会に明け暮れ夏休みには原付で日本一周を試みて三重あたりで挫折するようなパターンである。

厄介なのは、それなりにネームバリューのある会社の一員となったことに妙な自信を見出してしまうパターンである。

企業名には魔力がある。一人の人間を"何者か"に仕立ててくれる魔法の装置だ。朴訥な青年を証券マンに、お調子者の男を商社マンに、気のいい男を不動産営業に。はなはなだしい場合は、名前ではなく「三井物産の彼」「電通の彼」「森ビルの彼」と呼ばれることもあるし決して珍しい光景ではない。

こうした企業名を手にすることで、高校時代に果たせなかった"出世"を始めて果たせたように感じる人がいる。

4年越しの出世を果たした男が何を望むか。それは、高校時代に見上げていた者たちがしていたことの追体験だ。

男子校で輝いていた生徒は種々雑多なことに打ち込んでいたが、"出世"を果たした社会人になってから自分も真似できることは少ない。となると残る選択肢は、

「他校の女子と遊ぶ」

これである。

結果として、"女慣れしていない遊び人"という謎の人材が誕生する。

それでも合コンを絶え間なく開けるだけの人脈や積極性があればまだいい方で、アラサーになってもグズグズと遊びたい欲求をもてあそびながら鬱屈している男も少なくない。

そういう男がたどり着く最後の戦場が婚活パーティーだ。

彼が遊び人であることは「企業名」というアイデンティティに支えられているため、スペックは立派だ。婚活パーティーではモテる。女性とカップルが成立する。連絡先を交換する。

しかし、話してみると何かが足りない。

それを一律に言語化するのは難しい。女性にもジレンマがある。彼がしっくりこないのは自分のわがままなのではないかと思う。多少の欠点は我慢せねば、と思う。

しかし僕はひとつヒントを出したい。

彼は男子校出身ではないのか?

彼は、あなたのことをまだ「他校の女子」としか見れていないのではないか?

彼がしているのは婚活でも恋愛でもなく、青春の弔い合戦ではないのか?

特に高校時代の思い出話をたくさんしてくるorたくさん聞いてくる男には注意していただきたい。

今日言いたいことは以上だ。