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サンドイッチとロックアイスを入れたアイスコーヒー

「都心真夏日か」と明るいニュースに彩られた穏やかな日曜日の昼食にふさわしいのはサンドイッチとロックアイスを入れたアイスコーヒー以外にはあり得ない。この結論は起床から15分で出た。窓を開け放ち軽く床を掃除して洗濯機を回しシャワーを浴びてパンツ1枚でソファに座り汗の噴き出す裸体をサーキュレーターの風で乾かしながら、僕はamazonの定期お得便で配達されるクイックルワイパーウェットシートの到着を待っていた。

窓の外からは子供のはしゃぐ声がする。

東京23区の中でも文京区という街はとにかく学校が多く、したがって学生も多い。声変わり前の小学生がキャッキャと遊んでいるのかと思ったら、漏れ聞こえる会話の内容からしてどうやら女子中学生か高校生のようだ。たぶん部活終わりなのだろう。「でもアイリ先輩は絶対怒ってたし先生も注意しないとかマジあり得ない」「なんでアイスじゃだめだったんだろうね」なんて話をしている。なんで、アイスじゃ、だめだったんだろうね。なんでアイスじゃだめだったんだろう。僕はぼんやりと記憶の中に意識を泳がせてみたが、なんでアイスじゃだめだったんだろうと思うようなシーンは今までの人生になかった。僕が25年間出くわすことができなかった場面に遭遇できた彼女たちが少しうらやましくなる。

一昨日までの地方取材で撮った写真をLightroomで現像しながら、僕はロックアイスを入れたアイスコーヒーとサンドイッチのことを考えていた。近所には評判のパン屋があるけど、日曜日は閉まっている。コンビニかスーパーにいこう、と思った。暑いし自転車でいこう。そういえば2週間ほど自転車のタイヤに空気を入れていない。冬のボーナスで自転車を買ったとき、「2週間に1度は空気を入れてくださいね」と僕に言ったロン毛のお兄さんの顔が川面を漂う花弁のように流れていった。空気を入れよう。空気を入れたら、財布を肩掛けのエコバッグに入れて自転車で買い物に行くんだ。サンドイッチとロックアイスを入れたアイスコーヒー。

全てのスイッチはamazonの定期お得便で配達されるクイックルワイパーウェットシートなのだった。それを受け取った瞬間、僕の日曜日が始まる。あっけらかんとした青空の下、咲いたばかりの芍薬の切り花のそば、青い布張りのソファの上で僕はその時をじっと待っていた。

果たしてチャイムが鳴ったとき、僕は自分が半裸であることに気が付いた。

立ち上がってクローゼットを開け、3段に積んである無印良品の引き出しボックスの一番上と一番下を開けて目についたTシャツとズボンを身に着け、わざと大きな音を立てながら玄関に向かって(配達員にアピールするためだ)ドアを開けた。ジャックラッセルテリアみたいな顔の、日に焼けたクロネコヤマトの配達員が小包を持って僕を見つめていた。手早くサインをして僕はその箱を受け取った。「ありがとうございます」。部屋に戻って開封する。1包のクイックルワイパーウェットシートがずっしりと入っている。空気の詰まった梱包材を指で引き裂いて「ぱふう」と鳴らしながら玄関のそばのゴミ箱をフットペダルで開けた。1週間前に捨てたレトルトカレーのパックのカレー臭がまだ残っている。

日曜日が始まった。特に野球ファンではない友人が特に野球ファンではない僕にニューヨーク土産にくれたニューヨークヤンキースの黒いキャップをかぶりOLIVER PEOPLESのサングラスをつけて肩掛けのエコバッグに財布を入れた。日曜日が始まったのだ。勇んで玄関を出た僕はある重大なことを思い出した。自転車のタイヤに空気を入れてない。

やむなくキャップとサングラスはいったんキャストオフすることとなり、つっかけ代わりに使っている茶色のデッキシューズを履き、靴箱の上で横になっている空気入れを持って僕はアパートの階段を下った。駐輪場にたたずむ華奢な青い自転車は、もうずっと前から僕がこうしてやってくるのを待っていたように見えた。サドルを優しく撫でてやりたい欲求をこらえながらロックを開錠し駐輪場から引きずり出して、タイヤのバルブのキャップを外し、指でぷしゅっとやってから空気を入れる。押し引きのたびに抵抗の重くなるハンドルと戯れていると、空気圧のメーターの針がためらいがちに「7」を指した。ぐっと力を入れて口金を離す。プシューーーーーーーーーー。

日曜日が始まった。

部屋に戻って空気入れを下駄箱の上に戻し(背伸びをしたときふくらはぎをつりそうになった)、キャップとサングラスを再度装着してエコバッグを肩にかけ僕は愛車にまたがった。足がつくかつかないかの高さに調整したサドルに尻をおろすと、自然と前傾姿勢になる。最初はその不安定さに閉口したが、今はもうママチャリには戻れそうにない。アパートから飛び出すと、むき出しにした両腕と首筋に夏が襲いかかった。体の両端から走って首の後ろで渦を巻くような日差しの熱気。これに半分水につかったようなどうしようもない湿気が加わるのが日本の夏だ。息を吸って道幅の広い上り坂を駆け上った。路上駐車しているタクシーの運転席で、40歳くらいの色黒の男が大口を開けて眠っているのが見えた。

何も考えず走っていたら最寄り駅に向かう道に乗っていたので、そのまま駅前のスーパーで用を成すことにした。駐輪場の街灯の柱にワイヤーをくくりつけるようにして自転車をロックする。スーパーに入り、飲料のコーナーを物色すると無糖のミカドコーヒーのパックがあった。大手メーカーの4倍の値段がするやつだがこれ以上の役者はいない。迷わず買い物かごに入れて総菜コーナーに向かう。サンドイッチはいくつかあったが何よりマイセンのカツサンドに惹かれた。6切れ入りと3切れ入りがあり、逡巡すること5分、3切れ入りを買い物かごに入れその惰力でてりやきサンドだかベーコンサンドだかいろいろ入った総菜のサンドイッチパックを手に取る。

満足してレジに向かいながら僕はサンドイッチとロックアイスを入れたアイスコーヒーのことを想っていた。

あ、ロックアイス。

いったん並んだレジの列を離脱して冷凍棚に前に立ったがどこにもロックアイスの姿は求めようもなく、冷凍食品やらアイスクリームの箱やら種々雑多な冷たいものが並ぶケースの前のいったりきたりして僕は「う~む」とほかの人に聞こえないくらいの音量でうなってみた。うなったところでロックアイスが現れるわけでもない。酒類の棚、肉の棚、鮮魚の棚、およそ冷えた食品が置いてありそうなコーナーは大体巡ってみたがどこにもない。このスーパーにロックアイスはないのかもしれない。あるいは、今年で初めての真夏日をもたらした熱波の前に完売してしまったのかもしれない。

一軒隣にコンビニもあるのだからロックアイスはそこで買えばいい。僕は思い直してレジに並んだ。前に並んでいたのは部活中と思しきスポーツウェアの女子高生2人組だ。どうも今日はこの手の女子学生が多い。近くで何かの大会があったのかもしれないな、などと思いながら会計の順番を待っているとその女子高生がカウンターに置いた買い物かごには2kgのロックアイスが入っていた。それどこにあったの?

本気でそう聞こうかと思って2秒くらいモジモジしていたがなんとかおしとどめ、慣れた手つきでバーコードを読み取られるロックアイスを僕は見ていた。2人の女子高生は「さっきのアイス買っとけばよかった」「でもすぐ溶けちゃうよ」などと話しておりこう暑いと猫も杓子も氷のことしか考えられなくなるらしい。

「実習中」の腕章をつけた男性が会計のついでに袋詰めも済ませてくれて、僕はスーパーを出た。すぐに隣のコンビニに入り、ロックアイスを探し出して購入する。「このままでいいです」と言うとレジの男性店員は「ありがとうございますね」と言った。ありがとうございますね? ビニールのパックにシールが貼られてレシートが手渡される。「ありがとうございましたー」とマニュアル通りのあいさつに送られて僕は店を出た。「ありがとうございますね」。店員の言ったこの言葉を口の中でもごもご反芻しながら僕はスーパーの駐輪場にいる自転車を迎えに行った。

肩掛けのエコバッグは1kgのアイスコーヒーと1.5kgのロックアイスとついでに買った午後の紅茶無糖の2Lペットボトル、そして財布とサンドイッチでパンパンに膨れ上がり、子泣きじじいのごとく重かった。自転車のロックを解除してよっとまたがる。ペダルをこぎながら僕は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という徳川家康が言ったとか言ってないとか言われている言葉を思い出していた。今度は下りになった坂道を転がるように駆け下り、水中のゴミが排水口に吸い込まれるようにアパートの駐輪場へと入っていった。

部屋についた僕は、サングラスを棚の上に、岩のようなエコバッグを床に置き、キャップを脱いでクローゼットに貼りつけたフックにかけて洗面所で手を洗った。その足で台所の棚から湯呑みをとり、ロックアイスを入れてミカドコーヒーを注ぐ。ロックアイスを冷凍庫にしまってランチョンマットを広げマイセンのカツサンドと総菜のサンドイッチパックを置いた。日曜日は始まったばかりだ。

記事を3つ書く間に彼女ができた

タイトルが全てなのだがそういうことになった。

comebackmypoem.hatenadiary.com

この記事を書いたときの僕はまぁ一応それなりに落ち込んでおり、それなりに反省することもあり、そしてそれなりに疲れていたのだが当時の自分にはそれが気づけなかったみたいだ。散財して新しい服を買うことは、昆虫や爬虫類の脱皮に似ている。新しい服を着ることは古い服を脱ぐことだからだ。彼女が褒めた服、彼女を喜ばせた服、彼女のために着た服。

新しい服を着た僕がどうしたかと言うと、上の記事に書いてあるとおり合コンに行った。そして今の彼女と出会った。もっとも、その時着ていた服はKITSUNEじゃなかったけど。よく覚えてないがグレーのシャツの上に5年前買った福袋に入っていた黒いデニムジャケットを着ていたような気がする。

彼女と僕は付き合って間もない(マジで間もない)が最近聞いた話では、どうやら僕との関係を進展させることを彼女は友人たちから反対されていたらしい。曰く、「すなばさんは絶対遊んでるからやめといたほうがいいよ。絶対浮気するから」と。

その原因は彼女と出会った合コンにあった。合コンという場は、呼び方が嫌ならお食事会でもなんでもいいのだが、男女が少なからぬ期待を持ち貴重な時間を割き節約すれば数日間は暮らせるくらいの金銭を投資して集う場所だ。僕は基本的に、自身を貶めるようなことをされない限りは他人に対して最大限の敬意を払うようにしている。したがって合コンの場にあっては、「どんなに自分が興味を持てない女性でも、最低でもこの場を楽しんで帰ってもらう」ということは自分に対して課している。それが合コンに女性を呼び立てた男の責任というもので、この責任は受発注側のどちらであっても男全員が負うべきであり、ついでに言えば女性にもそのマインドは持ってほしいと思っている。

とはいえこれは僕が勝手に持っている美学なので人に強制するのはよくない。だから男性メンバーに「どんな[censored]がきても絶対に盛り上げて帰ろうな」などと言ったことはなくその日も言わなかった。この日は3:3の会だった。そして僕以外の2人――銀行員のA氏とインフラ系会社員のB氏――は、あまり会話をリードするタイプではなかった。

合コンにおいて全力で避けるべき事態は着席直後10分間に起こる沈黙であり、ここさえ乗り越えればあとは惰力でなんとか場が回る。僕は滔々とおもしろい話ができるわけでも底抜けの明るいノリを持っているわけでもなかったから、当たり障りのない話題で会話の口火を切って質問をし適度に相槌を打ちリアクションをしながら両脇の男性陣に話を振っていくというオーソドックスなMCスタイルで和やかに会を進行させていたつもりだった。つもりだったのだがこれがまずかった。

蓋を開けてみれば、その合コンで一番人気だったのは銀行員のA氏だった(これは後に彼女から聞いた話だ)。理由を聞いてみると「浮気しなそう」「優しそう」「まじめそう」だからとのことだ。B氏と僕の評価はどっこいどっこいで要するにその会は「A氏が当たりで他はスカ」というのが女性陣の総合評価だったようである。

で、一生懸命に会話を回していた僕はと言うと「なんかチャラそう」「遊んでそう」「浮気しそう」という評価だったらしい。僕はこの話を聞いたとき本当に驚いてしばし言葉を失った。普段の仲間内や合コンではむしろ僕は「おとなしい」「文学青年」「落ち着いている」「オタク」などと言われる方だったからだ。

この時僕は「合コンの相対性」という概念に思い至った。

僕は普段、編集者として働いているため、必然的に飲み会や合コンもメディアに近しい業界の従業者や、その界隈の男性たちとの会合に慣れた女性と行うことが多い。

生き馬の目を抜くマスコミ業界において僕の会話を回すスキルなど蚊の馬力に等しく、広告代理店やテレビ局、外資系保険会社の営業、証券マン、商社マンなどは別次元のコミュニケーション力というか強引さというか"パワー"としか表現のしようのない何かを持っており、そのパワーに日々さらされ続ける女性たちも相応の耐性を獲得していた。そんな中で僕のような人材は「根暗なクリエイティブ職」に位置しており、それでもその根暗さというか良く言えば思慮深そうな雰囲気に興味を持ってくれる女性はいる。そうしてパワー系との差別化を図りつつ互助関係を築きながら共存共栄の道を探っていた。

しかし、戦場が変われば戦い方も変わる。

僕を件の合コンに招いてくれたのはインフラ系のB氏(大学時代の同級生)であるが、女性側の幹事とは埼玉の街コンで知り合ったらしい。女性側の幹事の職業は地元の中小企業の一般職だった。そこで僕は思い至るべきだったのだ。常住坐臥自信満々にコミュ力とステータスで殴りあっている男女の合コンとこの合コンとを同一視するべきではない、ということに。

たぶん、その場にいた女性陣は、パワー系の連中に口説かれたことがない。ゆえに、その合コンを支配するのはパワーの論理ではない(※"パワー"とは単純な腕力のことではもちろんなく、「社会的地位」「経済力」「将来性」「交友関係」などもろもろの指標を指す。簡単に言うと中高とクラスの人気者で早慶東大一橋あたりの国内トップクラスの大学に入りそのまま大企業に入社みたいな分かりやすいエリートコースを歩んでいる奴らの中でも女性関係に積極的にコミットする者が主にパワー系に分類される)

パワーの論理なき合コンでは、代わりに「無害さ」「優しさ」が評価指標となっていた。いかに経済的リスクがなく、扱いやすく、自分を傷つける恐れがないか。それらを加味した上で初めて、「好きなタイプ」という概念が表出してくる。

いかに和やかであろうとも、「会話を回す」という行為自体が彼女たちからしたら嘘くさく、リスクの高い男のすることなのだろう。もっと言えば、「会話」は「回す」ものという発想そのものがチャラチャラした遊び人の世界の話でしかないのだろうと思った。ゆえに「遊んでる」「絶対に浮気する」という連想が僕に対しても成り立つ(この「遊んでる」とか「浮気する」とかの発言については思うところあるので別の機会に書く)

たぶんあの合コンの正解は「みんなで巨峰サワーを飲みながら子供のころ行った動物園の思い出話をする」とかそういうものであったはずだ。在りし日の教室内で自然発生していたような会話をするべきだったのだ。その延長線上に彼女たちの幸せはあるのだろう。

このように、合コンにおける力関係や評価指標が参加者の属性によって変わることを「合コンの相対性」という。

そんな合コンで出会ったにもかかわらず僕を選んでくれた彼女は、言葉少なで会の最中もあまり会話を交わさなかった。でも「おもしろいからまた会いたいと思った」のだそうだ。

そして改めて2人で会ったとき、あまりに僕がしゃべらないので驚かれた。その場には僕と彼女しかおらず他に楽しませるべき人もいないので自然なことだ。彼女が沈黙を苦にするタイプでないことはわかっていたし、だから僕も彼女に惹かれた。「普段はこうなんだよ」と言って、彼女が「そうなんですか」と返事をし、その後また3分くらい黙る。思い出したようにどちらかがとりとめのないことを聞く(昨日何時に寝たんですかとか)。それを繰り返していくうちに、気づけば何度も会っていた。僕が思いを伝え、彼女は5日ほど考えてぽつりと返事をくれた。

彼女がなぜ僕を選んだのか、僕はまだ知らない。

自由律俳句は俳句じゃないと思っている人へ

自由律俳句、特に無季自由律俳句は、「ただの文じゃん」「俺でも書ける」という批判にさらされることが多い。

韻文をかじった人の中には自由律に対しても理解がある人が多いが、それは詩の文脈に自らを置いているからいわば「詩をかぎ分ける嗅覚」のようなものが育っているためで、その手の文芸に触れる機会の少ない大多数の人にとっては自由律俳句がただの短文だと勘違いされるのも無理からぬ話である。

しかし、はっきりと言っておきたいのだが、自由律俳句は俳句である。

俳句を俳句たらしめているものは何だろうか。

・5/7/5のリズム
・季語

ほとんどの人はこの2つを挙げるだろう。

ところで、もともと俳句は"連歌"という七五調の言葉をつなげていく遊びの"発句"つまりしりとり遊びで言うところの「俺からいくよ! じゃあ、しりとりの"り"!」という口火を切るための気軽な韻文詩が独立したものだ。

5/7/5の定型は、いわばその時の名残である。連歌は5/7/5→7/7→5/7/5→7/7→5/7/5→7/7……と人を変えながら果てしなく和歌を続けていく遊びであるため、和歌の5/7/5/7/7から最初の3節が残ったというわけだ。

そして俳句に限らず韻文詩、つまり"歌"には、日常と同じ語彙を扱いながら、日常の言葉遣いや文脈とは離れた世界に人々を連れて行ってくれる力がある。

これも連歌の光景を思い浮かべるとわかりやすい。さっきまでぺらぺらと普通の言葉でしゃべっていた仲間たちが、5/7/5の発句をきっかけに、改まってリズムのある言葉をつなげていく。それは、リズムのある言葉が"歌"になり、日常の言葉から切り離された世界を形作る様子だ。

これはなんだかカラオケに似ている。

いわば俳句とは、カラオケの1番だけを歌うようなものだ。

メロディーが決められた曲の1番を、それぞれ好きな歌詞を当てはめて歌い、そのできを披露しあうような営みだ。

季語について話す。次の句を見てほしい。

妻の遺品ならざるはなし春星も

右城暮石

字余りの句だがそれは置いておいて、この句の季語は「春星(しゅんせい)」つまり春の星である。

寒さが緩んだ柔らかな夜の空気。潤んだ膜のような暗天に瞬く宝石のような星すら、妻が自分に遺したもののように思える。そういう俳句だ。深く愛する人を亡くした男の、越えてきた悲しみの大きさや愛の深さをしみじみと感じる美しい句である。

たった18字からここまでの情景を感じ取れるのは、季語の持つ世界の広がりのおかげだ。

手元にある角川学芸出版の歳時記を見ると、「春の星」の項にはこう書いてある。

春の星は、柔らかい夜気に潤みつつ、しきりに瞬く。

青空に映える夏の入道雲を見ると小学校の夏休みを連想する人が多いように、季語には一定のお約束というか、その言葉が内包する無数の情景とストーリーがあるのだ。

この句が「夏の星」でも「冬の星」でもなく「春の星」でなければいけない理由は、その星を「妻の遺品ならざるはなし」と断定する心情の微妙な危うさにある。

妻の死に悲嘆している風でもなければ、完全にその悲しみを乗り越えて前を向いている風でもない。「あの星も妻が自分に遺したものなのだ」と感じる、半ば死を受け止めつつあり半ばではまだ妻の姿を夢想している、そんな情景は「春の星」以外にあり得ないのだ。

ちなみに「夏の星」は歳時記でこう解説されている。

夏は高原や海岸で星空を仰ぐ機会も多く、星にも涼しさが感じられる。

爽やかである。昼間の暑さがやわらいだ夏の夜、見上げる星は美しく清冽だ。「妻の遺品ならざるはなし夏星(なつぼし)も」もいい句だが、なんだか爽やかで別れをすっぱりと整理した男の姿が浮かぶ。傍らに再婚相手すらいそうだ。

そして、「冬の星」はこうである。

冬は大気が澄み、凍空の星の光は鋭い。

身を切る寒さと、澄んでどこまでも暗い空、刃物のように鋭い星の光。妻を想うには少し悲しすぎる情景ではなかろうか。「妻の遺品ならざるはなし冬星も」。だめだ、思いとどまれ、と言いたくなる。

ちなみに秋には「星月夜」や「天の川」という季語があるが、ここまでくると妻の遺品と断定してしまうには少し華美すぎる気もする。満天の天の川を指して「妻の遺品ならざるはなし」と言っている男はちょっと自分に酔いすぎだ。「妻の遺品ならざるはなし天の川」「妻の遺品ならざるはなし星月夜」。うん、これは王子様の句である。一人の凡夫が、夜闇の中静かに妻を悼む。そんな悲しくも美しい情景はやはり、「春の星」以外では描けない。

ここまでの話を踏まえると、俳句は大まかに言って次のような営みであると再定義できる。


「決められたメロディーで、お題を1つ選んで替え歌を作る遊び」


ここでやっと自由律俳句の話になるのだが、自由律俳句のフロンティアを切り開いた男たちはむしろ、俳句に芸術性を求めた結果として"定型の放棄"という答えに行き着いたのだ。

簡単に言うと、「替え歌には表現に限界がある。俺たちは自分で曲も作る」という発想である。

さらに彼らはこの発想にたどりつく。「お題を必ず選ばなければいけないのもナンセンスだ。"お約束"に頼らずとも、言葉それ自体に意味と情景が宿る。お題など必要ない」。

たしかに季語の中には「木流し」や「竹婦人」など現代の生活習慣と乖離したものもあるので、俳句に親しんでいない人がこれらの言葉に情景を読み取ることは難しい。

この辺の経緯は、偉大な俳人の名前とエピソードを出しながら資料を引用しつつ書くこともできなくはない。しかし今回は概要だけにとどめておこう。かなり乱暴なたとえ話をしている自覚はあるが、自由律俳句とは俳句の文芸としての純粋さを極限まで追究したがゆえに生まれた形式なのだ、ということが伝われば十分だ。

さて、自由律俳句のシンガーたちは替え歌(定型)こそ放棄したものの、メロディー(韻律)自体を放棄したわけではない。彼らは定型としての普遍性を捨て去った代わりに、自分の心を動かした情景そのものが持つ、言うなれば"現前するリズム"を捉えることに腐心した。

ゆえに彼らの句にはみな、1つひとつ固有のリズムがある。リズムを持たない散文であるところの「ただの文」とは、この点において決定的に違っている。

なんとなしに理解が深まったところで、おそらくは日本でもっとも有名な自由律俳句を鑑賞してみよう。

咳をしても一人

尾崎放哉

「咳」は冬の季語なので無季自由律俳句ではないのだが、おそらく放哉は季語を入れるつもりで「咳」という言葉を選んだわけではないだろう。それは彼の境遇を考えれば容易に想像のつくことだが、ここで言及するのはやめておこう。

この句のリズムは

咳を/しても/一人

の3/3/3だ。ぽつ、ぽつ、ぽつと虚空に溶けて消えていくようなメロディーだ。一瞬だけ胸と喉を震わせる咳の音が、この断片的なリズムと重なる。意味とリズムが重なり合い、寂静の情景をそこに作り出している。

この調子でもう何句か放哉の自由律俳句を鑑賞しよう。

花火があがる空のほうが町だよ

この句はどんなリズムだろうか。

花火があがる/空のほうが/町だよ

花火が/あがる/空のほうが町だよ

どちらでも読める。そしてどちらでも美しい句だ。このように、時として自由律俳句は、リズムの選択を読み手に委ねる。時を越え、詠み手と読み手の響き合いがそこに生まれる。

次はこれ。

あらしがすつかり青空にしてしまつた

この句には季語もない。無季自由律俳句である。リズムの解釈は自由だが、僕は「あらしがすつかり/青空に/してしまつた」の8/5/6で読んでいる。人によっては8/11だったり4/4/5/6だったりもするだろう。

季語の持つ膨大な情報量に頼ることもできず、リズムも慣れ親しんだものではない。

だからこそ自由律俳句は、作品の鑑賞者に深く深く入り込んでいく。

そこにある言葉は、古来から日本人が営々と育んできた美意識、伝統、そんなものとは一切関係のない生の言葉だ。俳人が一瞬の心の動きを捕らえて句帳に叩きつけた鮮烈な情景だ。ただその情景は、鑑賞者の記憶の中にある「あらし」や「青空」の像と結びついてのみ、よみがえるのを待っている。

どこまでもストイックで、どこまでも純粋で、どこまでも人間本位な詩だとは思わないだろうか。

熱くなってしまったので次の句にいこう。

うそをついたやうな昼の月がある

静かで絵画的な句である。昼の月に"うそ"を感じてしまう気持ちになったこと、一度は経験のある人が多いだろう。

打ちそこねた釘が首を曲げた

悲しい。首を曲げた釘はもう役には立たず、打ち損ねた徒労感と自分へのかすかな諦めが漂う一句だ。句の持つ悲しさが、首を曲げた釘という光景を見つめる"こちら側"の気持ちとして再生される。

いつしかついて来た犬と浜辺に居る

僕はこの句のどうしようもなさがとても好きで、「全て嫌になって公園に犬」というアンサーソングを詠んだことがある。

どうだろう。

僕の主な主張は「自由律俳句は俳句の中の俳句である」というものなのだが、少なくとも「ただの文」でないことはなんとなくわかってもらえただろうか。

俳句には、季重なりや季違い、切れ字、一物仕立て、取り合わせ、などなど様々な型や作法がある。逆に言えば、これらの作法のもつ力、定型の美しさを利用してすぐれた作品を生み出すことができる文芸だ。(※これは決して、俳句が簡単だと言っているのではない)

一方で、自由律俳句には何のルールもない。しかし、ルールがないから「ただの文」に成り下がるような半端な文芸でもない。

そこには、自分の心を動かした一瞬の衝撃が鳴らす音を捉えるため、それ以外のすべてを放棄した獣のような詩人の魂があるのみだ。