高校を卒業してから21歳になるまでの自分を殺してしまったことについて

初めて詠んだ自由律俳句は

 あんなカーテンがほしいと空を見て

で、それが詠まれたのは高校2年生の春だった。

その時習っていたこと、100m走のタイム、友人関係、ヒットソング、何一つ覚えていないけど、「あんなカーテンがほしいと空を見て」という句が生まれた時の手ざわりのようなもの、鼻の奥で感じていた空気の質感や光の柔らかさは今も思い出せる。

21歳から今までに詠んだ自由律俳句のほぼ全量を並べたtumblrを作った。

comebackmypoem.tumblr.com


並び順はランダムだ。

大学生時代に詠んだ句のすぐあとに、転職する直前に詠んだ句が続き、そのどちらもが「雨」について詠まれていたりする。

詠んだ時期のバラバラなひとつひとつの句を投稿していく作業は、なんだか自分の遺骨を拾っているような奇妙な感覚だった。

全ての作業が終わった時、僕はなぜか安堵していた。

昔を思い出して感傷に浸ることは、甘美な魅力を持っている。

誰にでも忘れられない過去があり、呼びかけたい名前があり、会いたい人がいて、やり直したい出来事がある。

しかし、いつからか分からないが僕は、そういったものに思いを馳せることを必要以上に忌避してきたように思う。

ある時期、僕はあまりに深く人を傷つけ、自身もまたあまりに深く傷ついた。

荒んだ心は、手負いの獣がやたらに人を噛むように、周囲の人をも傷つけてしまう。

僕が過去を振り返る時、たとえば高校時代や中学時代のような昔を振り返る時、その視線の上には見ていられない姿の僕がいて、無いはずの壁がパントマイムで見えるように、僕が傷つけている人の姿も浮かび上がってくる。

高校生から詠み始めた自由律俳句は、21歳でEvernoteに記録し始めるまでにいったん句作が途切れている。

その間もいろいろな文章を書いたけど、記録に残っているものはほとんどない。そしてその時期こそが、僕が最も向き合いたくない時期でもある。

かろうじて残っているのは、以下のような短文が少しだけだ。

猫はただただ純粋に僕を必要としている。言葉が話せないから、元気がなければ病院につれていく。看病をする。元気になったら僕にすりよってくる。なんて愛しいんだろう。猫にとっては飼い主なんて世話をしてくれりゃ誰でもいいわけだけど、愛することで救われることだってある。

たしか20歳の時に書いた。成人式に行かずに、家で泣きながら書いたんだと思う。この時のことを書くつもりはない。

自由律俳句を再開した21歳という時期は、いろいろなことが落ち着き始めた頃だ。

どのようなきっかけでもう一度自由律俳句を詠もうと思ったのか覚えていないけど、とにかく僕はこの表現に再会した。

あるいはそれは、猫が傷口を舐めるような必然的な行為だったのかもしれない。

好きな句がいくつかある。tumblrの表題作に選んだ

 木星と思いだした日

もその一つだ。


 漏れ出す音に耳をすませる

 どんな夜も夜の匂いがする

 誰かきたようなそよ風

 鳴り止まない拍手のような雨だ

 なんにもないソファーに座る

 立ち止まる夜に暮らしている


どれも、詠んだ時の出来事は忘れてしまったけど、句が生まれた瞬間の生々しい肌感覚や、心の様子や、目にしたものの鮮烈さは焼き付いて離れない。

以前、僕は自由律俳句について、このような記事を書いた。

comebackmypoem.hatenadiary.com

ただその情景は、鑑賞者の記憶の中にある「あらし」や「青空」の像と結びついてのみ、よみがえるのを待っている。

僕が感じたことは、他の誰にとってもどうでもいいことだろう。

それでも、これらの句が誰かにとり、この句でしか呼び起せない感情や、光景や、温度や、匂いを喚起させることが一度でもできたのなら、今日まで生きてきた意味があったと思う。過去を恐る恐る振り返りながら。

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筆者: すなば
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エモいとは何なのか

気付けば皆「エモい」と言うようになっているがそもそも「エモい」ってどういう意味なんだろうか。という素朴な疑問に「古語の"をかし"や"あはれ"と同じだよ」みたいなことをしたり顔(想像) で返す人もいるが、微妙に納得できるようでできない。"をかし"が日常で使われなくなってから何百年経っていると思っているのだ。

きっと今までは「なんかいい」「なんかオシャレ」「雰囲気いいね」とかその辺の言葉で表現できていた概念が、それらの言葉では替えが利かなくなり始めたから「エモい」が台頭してきているのだと思う。

僕も「エモい」という言葉を使うが、「エモい」は「あはれ」ではないし、同時に「エモい」以上でも以下でもないのだ。

(参考: 最近「エモいなー」と言いながら撮った写真)

「エモい」という言葉は音楽ジャンルの"エモーショナルハードコア"からその文脈を発しているように思うが、急激に使用者が多くなったのは2010年代に入ってからではないだろうか。

この間、人々が情緒を表現するにあたり多大な影響を与えたものがある。言うまでもなくSNSであり、Twitterであり、Instagramだ。

特に人々の美意識について、Instagramは「インスタ映え」という新たな概念を生み出した。

お洒落な空間、気の利いたデザイン、彩り豊かな食事などなど、視覚的に品質の高いもののほとんど全ては「インスタ映え」の文脈に回収される可能性を高く持っている。

また、ご存じの通り「インスタ映え」とは、「"いいね"をもらう」「褒められる」「拡散してもらう」といった「他者の視点」を強烈に含んだ概念だ。

インスタ映え」が台頭し、インスタグラマーが登場し、人々は物事の視覚品質に敏感になった。整ったもの、美しいもの、情緒のあるものは、相対的にその価値をより上げた。

しかし同時に、無意識下に「美しいものとは、より多くの"いいね"を集めるものである」という価値観をも生んでしまった。

もちろんそんなわけはないし、頭では皆分かっているのだが、「インスタ映えするかどうか」が物事の美しさ、感動の度合い、"良さ"を判断する上での一つの指標に仲間入りしてしまったことは事実だろう。

でも、美しさとは本来、見聞きする人がそれぞれ判断するものだし、感動もその人個人のものだ。

だから、InstagramなどのSNS文化に距離が近く、美意識に敏感な人ほど、その人個人の「美しい」「良い」という感動を表現するとき、インスタ映え」という指標を意識的に排除する必要に迫られた。そうして使われるようになった言葉が「エモい」なのだと思う。

「エモい」とはつまり「心動かされた」ということだ。そしてそれは、どのSNSやコミュニティからの要請でもなく、「自分自身がそう感じた」感動の事だ。

「エモい」という言葉の使われ方に違和感を覚える人も多いのは、SNS文化から一定の距離を置いている人にとって、感動を表明するのに「"いいね"集めを企図しているかどうか」を(無意識に)気にしてしまうような気持ちにピンとこないからだろう。

「エモい」とは、自分の覚えた感動を「インスタ映え」から保護するための、感受性の防波堤なのだ。

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筆者: すなば
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幸せを問いかけてくれた人へ

少し前からTwitter質問箱を公開していて、ゆっくりと答えている。質問に答えるというのはいつだって楽しい。

今まで答えた質問の中のひとつに、こんなものがあった。

小さなしあわせを大事にするのは寂しいことですか?

回答する時もずいぶん悩んだけど、あまり答えた気になれなくて、なんとなくこの質問がずっと僕の中に残っていた。

本記事は加筆修正のうえ『さよならシティボーイ』に収録されています。WEBでの公開は停止しております。


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筆者: すなば
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