「老い」も「妊娠」も障害だ

週末にはたまに銭湯に行く。自宅から歩いて5分くらいのところだ。

前に行ったのは1か月くらい前だっただろうか。引き戸を開けると、番台にはいつものお婆さんではなく初老の女性が座っていた。
「千円札でもいいですか?」
「はい、いいですよ。お釣りです。ごゆっくり!」
快活にハキハキと接客してくれる様子が、なんだか妙に新鮮だった。

銭湯の楽しみといえば、何をおいても交互浴である。熱い風呂と水風呂に交互に入ることで、体を芯から暖める入浴法だ。これは家風呂ではとても再現できない贅沢である。

交互浴に集中するため、かけ湯をしてすぐに浴槽に、なんてことはしない。体と髪を入念に洗い、洗い終わったら軽く体を拭いて、一度浴場から出て持参した石鹸類をロッカーにしまう。そして手ぬぐいだけを持って戻り、まずは薬湯に入る。

薬湯と言うのは、要は入浴剤を入れた湯のことであり、週替わりで種類が変わる。本当にあるのかどうかわからない保湿効果とかはどうでもよく、重要なのは薬湯が「少しぬるめ」であるということだ。まずここで1分ほど湯に体を慣らし、隣のジャグジー風呂に身を移す。

この銭湯のジャグジー風呂は熱めの湯温で、体の柔らかいところに当てると痛いくらいの強すぎるジェット水流が老若を問わず人気だ。肩まで湯に沈めると、ちょうど腰のあたりに2本のジェットが直撃する。日頃のデスクワークで変な癖がついた筋肉を、問答無用で解きほぐしていく感覚がたまらなかった。

水風呂に移る。ここの水風呂の浴槽は小さく、大人1人が入ったらもういっぱいだ。すぐにぬるくなるから、入っている間は蛇口をひねって冷水を入れ続けるのがマナーである。水風呂は最初に入るときだいぶツラいが、川を渡ってベースキャンプから逃れる捕虜になったつもりで入るとそんなシチュエーションも楽しめるのでオススメだ。


冷水の中で毛穴が閉じていくのを静かに感じていると、すぐ横で生まれたての小鹿みたいに震えているおっさんがいることに気づいた。


ジャグジー風呂と水風呂は隣接しており、おっさんはジャグジー風呂から出ようとしているらしい。どうやら足腰が不自由なようで、座った状態から身を起こすのにも大変な労力がいるようだ。手すりに両手をかけ、やっとのことで身を起こしたものの、ジャグジー風呂の「敷居をまたいで浴槽の外に出る」という行為にまた苦労しているようだった。全身をぷるぷる震わせながら、どうにか片足を上げて浴槽の外の床に置くと、今度はその倍近い時間をかけて次の足を上げる。足腰をかばって全体重を手すりに預けている両腕がぶるぶると気の毒なくらい震えていた。

はた目から見ても、一連の動作で起き上がるだけで相当な体力を消耗したであろうことがわかった。おっさんはなんとか敷居に腰かけ、静かに肩を上下させて息を整えていた。一息に風呂から上がれないくらい、足腰が言うことを聞かないのだ。

水風呂は、ジャグジー風呂の出島みたいな形で、洗い場の方に突き出している。水風呂から一番近いユニットには、おっさんの物と思われる入浴用の椅子と前腕型の杖があった。

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杖は椅子に立てかけてあったのだろうが、今は床に横たわっている。おっさんとの距離から考えて、めいっぱい上体を沈めて腕を伸ばさないと届かないことは自明だった。

息を整えたおっさんの目線が、床に横たわる杖の方に泳いだ――と思ったら、おっさんはまた前を見据えた。

俺には、痛いほどに、おっさんの気持ちがわかってしまった。俺は昔、骨盤を骨折したことがある。骨がくっつくまでは入浴もままならず、病院の風呂に入るにも松葉杖が必要だった。健康な時は考えもしないが、骨盤を折ると「絶対にできない姿勢」がそれはもう多くなるのだ。ほんの少しの角度、ほんの少しの距離の差で、すぐそばに落としただけの物が絶対に自分では拾えなくなってしまう絶望。それに気づいてしまったとき、俺は一度、その物から目をそらしたのだ。誰かの力を借りなければいけない、情けない数十秒先の未来が確定したとき、俺は束の間、気づかないふりを誰に見せるでもなくしてしまうことがたびたびあった。それは自分への言い訳であり、自分のプライドを守るためでもあった。

おっさんにも、それが見えてしまったのだ。

あの杖を取るための困難が。

足をもがれた虫が数センチ先の餌を得るためには、気まぐれな人間の助けが必要だ。そうなった虫は助けられる間もなくカラスか何かに食われるだろうが、現代日本で同じ状況におかれた人間が捕食されることはない。その代わり、誰かの「善意」に、自分自身のすべての運命を預けなければいけない。そういう瞬間が、まさにこの時、おっさんに訪れていた。

俺は少し迷ったが、おっさんの視線がふたたび動きそうになったタイミングを狙って、「これ、取りましょうか」と声をかけた。

おっさんは一瞬「え?」と聞き返したが、俺は無視して杖を拾い、おっさんに手渡した。

おっさんは「ありがとう」と言った。

「きみ、女性にもてるでしょう。よく気がつくね

俺は「いや、そんなこと」ともごもご言いながら、自分が水風呂に長く入りすぎたことに気が付いた。

「学校じゃ教えてくれないもんね、こんなこと」

おっさんはそう言いながら、今度は杖を水風呂の敷居に立てかけようとしていた。俺もそれを手伝い、なんとか安定してひっかけることができた。

「でも今どきは、福祉施設で学習したりすることもあるらしいですよ」などとよくわからないことを言いつつ、俺はジャグジー風呂に戻って、おっさんの斜め後ろの湯に身を沈めた。それから、言葉を交わすことはなかった。

さて、おっさんはと言うと、杖を使って起き上がったのだが、それがまたハラハラドキドキで、まず腰を浮かせるまでに壮絶なまでの時間を要した。もちろん全身は震えている。気の毒なくらい体重をかけられた杖が、床で滑ってしまわないかと俺も気が気でなかった。ここで手伝うことはしなかったし、してはいけないとさえ思っていたが、今となってはその判断も正しいのかどうかわからない。

なんとか立ち上がったおっさんは、「じゃ、また」と俺に一礼し、ペンギンのような歩みで、ゆっっっくりと脱衣所に向かっていった。

それを薬湯から見ていたジイさんたちが、何を言っているのかは聞こえなかったが、まぁおそらくは「大変そうだなぁ」とか「大丈夫かなぁ」とか話していて、俺はその時ふと思ったのだ。


あぁ、障害ってこういうことなんだと。


ケガなどの一時的なものかどうか分からないが、あのおっさんは間違いなく身体障害者のカテゴリに入るだろう。

なぜかというと、「普通の人」の使用を想定して作られた物を普通に扱うことができないからだ。今回の場合は、またがなければ出入りできない銭湯の浴槽がそれだ。

障害の本質は「"普通"を想定して作られたものに対応できない」というところにあり、表向きのレッテルは障害者本人にとってはどうでもいいことだろう。

だから、自分の意に反して局部から血が出てしまう「生理」もある種の障害と言えるし、筋機能や視力や聴力がおしなべて落ちる「老い」も、激しい運動ができず腹部が大きく膨らみ体調が不安定になる「妊娠」も、本質的には障害の一種だ。骨盤を折ることだって障害だ。

一般に言う「障害者」との違いは、生理や妊娠は人類の半数、老いは全人類が経験し得るという"母数"の差でしかない。

そういうフラットな視点で考えると、「女の子が重い荷物を持っていたら代わりに持ってあげる」とか「妊婦に席を譲る」とか、畢竟、「同僚の資料探しを手伝う」とか「幹事慣れしていない友人にいい店を紹介する」とかも"障害のケア"と考えられるんじゃないだろうか。

人間関係を運営する上で当たり前の気配りの延長線上に、バリアフリーがあるんだろう。

「障害」は誰でも抱えているものだ。それを助けることにためらいなどいらない。特別な憐憫もいらない。誰かが困っていて、自分がそれを助けられるなら、助けてやればいい。

「障害者を助ける」ということが高尚な行いになればなるほど、この国は住みにくくなってしまう。


そんなことを考えながら風呂を上がってフロントの待合所に戻り、コーヒー牛乳を飲もうとドリンクの陳列棚を見たら牛乳瓶が消えて紙パックの牛乳とコーヒー牛乳が並べられていた。仕方なくオロナミンCを買い求めると、テレビを見てケラケラ笑っていた番台の女性が愛想よく「120円です~」と対応してくれた。「ハイヒャクエン」といつも食い気味に答えていたお婆さんも瓶の牛乳ももうなく、もしかたらこの先もずっとないのかもしれないと思った。