男子校出身者の恋と最後の戦場

shiho氏のこの記事を読んで非常に思うところあり、男子校出身者としての所見を述べてみようと思う次第だ。

note.mu

うんこを漏らした記事でも触れたが、僕は中高6年間、都内の一貫校に通っていた。男子校である。うんこを漏らした翌週はからかわれこそされたが、いじめに発展するようなことはなかった。その時、僕の腹の底を「共学だったら死んでいた」という根拠のない確信が冷たく横切ったのを覚えている。

男子校の環境については、異性の目がない(それどころか存在すらない)ため「ヤンキーもオタクも対等で仲がいい」とか「いじめがほとんどない」とか巷間でいろいろ言われているけどまぁ大体当たっていると考えていいのではないか。しかしそれは一定の偏差値水準を越えた男子校に限られる話であるとも思う。

要は「(育ちのいい)ヤンキー(ぶってる生徒)と(なるべくしてなった)オタク」との間に、「女に良い格好したい」という至上命題が絡まない限り対立の起こる要素が少ないということなのだ。対等というよりお互いにあまり関心がないという方が正しい。

それに、ヤンキーというかイケメングループには大体にしてお抱えの天才ハッカーが1人はいるものなので、スマホやゲーム機のトラブル、違法動画のダウンロードや他校の女子生徒のアカウント特定などは在野のオタクの手を借りるまでもないのである。

話がそれた。

shiho氏は冒頭の記事において、女子高出身者についてこう語っている。

……これは完全に偏った自論だけど、女子校というのは「なんでもひとりでできる女」と「なんにもひとりでできない女」を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンみたいなものだ。
(中略)
男子に対する免疫ゼロな女子校出身者にこのふたつの要素を掛け合わせると、

・男子に対する免疫ゼロ×なんでもひとりでできる女=ヒモと付き合う
・男子に対する免疫ゼロ×なんにもできない女=彼氏に依存する

みたいな感じになる(極端な例だけど、近いケースは恐らくすごく多いです)。

女子高出身者の特質については僕もかなり思うところあるのだがそれはひとまず置いておいて、このように男子校出身者について語るとしよう。

男子校という環境は良くも悪くも生徒の個性を野放図に伸ばしてしまう傾向があるため、オタクはとことんオタクになるし、上位1%のイケてるグループはセブンティーン誌のDK座談会とかに出たりして大学卒業後も続く華やかな交友関係の基盤を築き、他方では幼少の頃からの趣味である昆虫採集に情熱を傾け続け趣味が高じて養老孟司的な業界の有名人と仲が良くなったりする生徒もいる。

そんな中で浮き彫りになってしまうのが、「自分という存在の限界」だ。

男子校は、生徒の個性を伸ばしやすい環境である一方で、「個性を自覚していない生徒」に対してはけっこう過酷な環境になり得る。

共学では(共学を知らないので想像上の共学だが)学年のトップクラスの地位を築けるような、「調子がよく」「空気を読むのがうまい」生徒は、しかしそれだけでは男子校では埋没してしまうのだ。男子校は「一芸こそ価値」という空気感が支配的で、イケてない生徒でも何か突出したスキルや打ち込んでいるものある生徒が一目置かれる。この「一目置かれる」という概念が重要で、男子校はメンツの世界なのだ。

僕の代にも、「意地でも水泳の授業を受けない」という一点でのみ全校生徒の尊敬を一身に集めている生徒がいた。強面の体育教師に「水がトラウマなんです」と言い張り30分粘った末に全授業の欠席を認めさせ単位も取得したことは今でも語り草だ。ちなみにトラウマというのは嘘である。そしてなぜ彼がそこまで水泳の授業を固辞したのか、理由は今でも誰も知らない。

また話がそれたが、つまり男子校では早々に自分の限界を思い知ってしまう生徒が一定の割合出てくる。shiho氏風に表現するなら、

「マイワールドを構築した男」
「凡庸を自覚してしまった男」

を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンなのだ。

この2種類の男が恋愛においていかに厄介な存在であるか、勘のいい方はすでにお気づきだと思う。

前者は、ブレない自分の世界観を確立してしまったがために恋愛で苦戦することが多い。森見登美彦の小説『太陽の塔』に出てくる一場面の引用をその説明に代えたい。

 飾磨は女性と付き合ったことがある。
 彼は塾講師のアルバイトをして生活費を稼いでいたが、塾生徒の女子高生をつかまえた。品良く言い直せば、職権を濫用してたぶらかしていてもうたのである。
(中略)
 梅田のヘップファイブに赤い観覧車がある。私はまだ見たことがなかったが、それは毎日若き男女を載せてぐるぐる飽きもせず同じ場所を回っているという話だった。飾磨は彼女と大阪へ出かけたついでに、音に聞くその観覧車に乗りに行った。
 順番を待ちながら、彼は少しそわそわしていた。二人の間に交わされた言葉は想像すべくもないが、はたから見れば普通のカップルに見えたろう。やがて順番が巡ってきて、彼はゴンドラに乗り込んだ。彼女が続いて乗り込もうとすると、彼は厳然とそれを押しとどめた。
「これは俺のゴンドラ」
 毅然とした台詞を彼女に残して、彼がぐるりと梅田の空を一周して戻って来たとき、彼女はもういなかった。これは本当の話である。

これは極端な例だが、それがたとえ女性受けする世界観であったとしても、どこかで必ず衝突あるいはすれ違いの時がくる。その時彼女は、謎の自信にあふれた彼の決めつけに愕然とするだろう。長くなるのでこの種の男性について詳しく紹介するのはまたの機会に譲ろう。

さて「凡庸を自覚してしまった男」についてである。

彼はエキセントリックな生徒が多い男子校で可もなく不可もない学校生活を送ってきたためか、思いのほか共学の大学に進んでも順応が早い。共学出身者に交じって一見楽しそうに学校生活を送ったりする。就活も順当に終わらせることが多い。

普通に彼女もできる。

そして普通に結婚するだろう。

しかし、彼の腹の底には大変高い確率で「失われた青春」という爆弾が眠っている。

これはつまり、打ち込むべきものが何もなかった高校時代の雪辱を果たさんとするソルジャーの魂だ。

部活も、バンドも、映画も、昆虫採集も、女の子も、何もなく、個性を輝かせる生徒を横目に見ながら、なんとなく楽しくへらへらと学校生活を送ったことへの復讐心である。

彼は傍観者であったがゆえに満たされない功名心を抱えている。生涯それを抱えたまま人生を終えることもあるだろう。しかし、多くの場合どこかでそれは爆発する。

「大学デビュー」という形で爆発させられた人は幸運だ。男子校でのいわゆる"陰キャ"が大学に入った途端髪を茶色に染め活動内容が不明なサークルに入り飲み会に明け暮れ夏休みには原付で日本一周を試みて三重あたりで挫折するようなパターンである。

厄介なのは、それなりにネームバリューのある会社の一員となったことに妙な自信を見出してしまうパターンである。

企業名には魔力がある。一人の人間を"何者か"に仕立ててくれる魔法の装置だ。朴訥な青年を証券マンに、お調子者の男を商社マンに、気のいい男を不動産営業に。はなはなだしい場合は、名前ではなく「三井物産の彼」「電通の彼」「森ビルの彼」と呼ばれることもあるし決して珍しい光景ではない。

こうした企業名を手にすることで、高校時代に果たせなかった"出世"を始めて果たせたように感じる人がいる。

4年越しの出世を果たした男が何を望むか。それは、高校時代に見上げていた者たちがしていたことの追体験だ。

男子校で輝いていた生徒は種々雑多なことに打ち込んでいたが、"出世"を果たした社会人になってから自分も真似できることは少ない。となると残る選択肢は、

「他校の女子と遊ぶ」

これである。

結果として、"女慣れしていない遊び人"という謎の人材が誕生する。

それでも合コンを絶え間なく開けるだけの人脈や積極性があればまだいい方で、アラサーになってもグズグズと遊びたい欲求をもてあそびながら鬱屈している男も少なくない。

そういう男がたどり着く最後の戦場が婚活パーティーだ。

彼が遊び人であることは「企業名」というアイデンティティに支えられているため、スペックは立派だ。婚活パーティーではモテる。女性とカップルが成立する。連絡先を交換する。

しかし、話してみると何かが足りない。

それを一律に言語化するのは難しい。女性にもジレンマがある。彼がしっくりこないのは自分のわがままなのではないかと思う。多少の欠点は我慢せねば、と思う。

しかし僕はひとつヒントを出したい。

彼は男子校出身ではないのか?

彼は、あなたのことをまだ「他校の女子」としか見れていないのではないか?

彼がしているのは婚活でも恋愛でもなく、青春の弔い合戦ではないのか?

特に高校時代の思い出話をたくさんしてくるorたくさん聞いてくる男には注意していただきたい。

今日言いたいことは以上だ。


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筆者: すなば
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