「床磨く日々」が僕たちを救う

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昔こんな詩を書いたことがある。

僕は棲む 海辺の家に
雲のあり方を見つめる
波間に老人の唄を聴く
床磨く日々をいつくしむ

これは最後の一連で、本当はもっと長い詩だ。全文は載せないけど昔やっていたnoteにまだ残っているからぐぐれば出てくると思う。要約すると振られた女への恨み言で、最後は海辺の家に引きこもるという具合である。

今住んでいるのは文京区のアパートで海辺でもなんでもないけど、ずいぶん前から僕の志向する生活はこの4行に集約されていた。実家に住んでいたころから、部屋の窓を開けて、風の音を聞きながら過ごすのが好きだった。全部を自分で管理する自分のためだけの空間がほしくて、一人暮らしへの憧憬は高校生の頃から日に日に高まった。

結局家を出たのは社会人になってしばらくしてからだった。ちょっと見てみようかなという気持ちでアポをとった不動産屋で「これは」という物件に出会い、そのまま決めてしまったのだ。そのころ、僕は以前付き合っていた彼女と付き合い始めたばかりで、藝大にいる親友とルームシェアする話も同時並行で進めていた(2人して、1人暮らしの線も同時に探っていた)。

「俺、すごい部屋を見つけた。悪いけどここに決めてしまうかもしれない」とスマホでメッセージを送ると彼は

「どうぞ」

とだけ返信をよこした。後から分かったことだがめちゃくちゃ怒っていた。彼女ができたばかりのタイミングだったから余計に印象が悪かったのだろう。そんな部屋に今も住んでいるわけだ。あれからもう2年になる。

2月の終わりくらいから始めた転職活動がゴールデンウィーク明けになんとか実を結び、僕は大学卒業以来世話になった会社を6月いっぱいで出ることになった。

いろいろと思うところはあるが、日中は抱えている仕事の消化と引き継ぎ業務で感傷に浸る間もなく、かと思えば夜は連日送別会が開かれ(辞めるとわかった途端にその人ともう1回飲んでみたくなるアレだ)毎晩泣きそうになりながら浴びるほど酒を飲んでいる。そんな生活を2週間ほど続けていたら見事に体調を崩した。まず強烈な胃痛が僕を襲い、翌朝からは歩くのもしんどいほどの胃もたれ。慢性胃炎をゆるゆると引きずったままなんとか薬の力で復調しつつあったころ、上司とカラオケスナックに行った晩に今度は風邪の症状が出た。

一家の中でも群を抜いて体が弱い僕は、家庭でそろえられる第三類医薬品にはけっこう詳しい。風邪の引き始めは葛根湯とアスコルビン酸原末(ビタミンCのこと)で大体はなんとかなる。翌朝、デスクでアスコルビン酸原末の白い粉末をボトルからスプーンですくって水で流し込んでいると、隣の席の同僚の女性が「また変な薬飲んでる」と心配してきた。「それ、法律でOKなやつ?」

僕はビタミンCの摂取がいかに人体にとって有益かを熱く語りつつ、ちょっと調子に乗ってスプーン3杯分くらいを1日3回に分けて摂ったところ夕方から夜にかけて猛烈な吐き気とだるさに襲われた。明らかにビタミンC過剰摂取の症状だった。

その夜は帰り道にある成城石井で夕飯を選んだけどあまりに食欲が無いので随分迷い、ふと目に止まった「紀州産梅と大葉の和風ジュレで食べるカッペリーニ」を買って帰った。梅は医者殺しというし少しは気分も良くなるだろうと思ったのだ。やはりそのカッペリーニは美味しかった。気分も多少良くなった。成城石井は最高。

その日、世間は赤い満月が見えるという「ストロベリームーン」に沸いていた。僕は窓から薄雲にぼやける月を見た。赤くはないけど、いい月だ。電気を消して眠った。

今日は本当に何カ月かぶりの予定のない土曜日で、おろそかにしていた部屋の掃除とたまった洗濯物等々の家事の消化、とにかくもろもろの生活を整えることに専念しようと決めていた。仕事と交友に追われ続け、「床磨く日々」が僕の手元から離れていきそうになっていた。

朝8時くらいに自然と目が覚め、その時、前の晩にタイマーをセットしていた洗濯機の運転がちょうど止まった(洗濯機の音で目が覚めたのかもしれない)。ガチガチに脱水されたバスタオルやら何やらをほぐしながらベランダに運び出し、物干し竿にかけながら空を見ると目の奥に沁みるような快晴だった。南東向きの日当たりのいい部屋で、この青空の下家事をこなすと思うとむしょうに嬉しくなった。

床掃除は家事の最後にこなすのが鉄則だ。その後の作業で床に塵が散れば元も子もないからである。僕は洗濯ネットにシャツやサマーニットを入れて、エマールとランドリンを投入し洗濯機の第二波を回した。今度はドライモードでおしゃれ着洗いだ。その間に玄関の三和土に座り込み、手持ちの革靴をぜんぶ磨くことにした。靴も、気づけばもう1カ月ほど手入れができていなかった。

ブラシで埃を落とし、クリーナーで磨き、ペネトレイトブラシでクリームを刷り込み、クロスでまた磨く。一連の作業を黙々と繰り返しているうち、僕はふと「床磨く日々」の何たるかを了解した。

大切なものを大切にすることだ。

自分が長く持ちたいと思っているもの、自分と長く接しているもの、自分の身体を構成するもの、自分の生活を作るもの、それら全てに、自分にとっての価値に見合った時間と手間を投入することだ。

僕たちはちょっと油断すると、ぜんぜん大切ではないものに多量の時間と手間を投入してしまいがちになる。手持ち無沙汰になればTwitterを開く、instagramを開く、Facebookを開く、いいねをする、またTwitterを開く……。

もちろん、SNSとかスマホをむやみに否定するつもりはない。その時間がかけがえなく大切であることもたくさんある。新卒で共に入社した同期が、既に辞めた人間も含めて全員集まって送別会を開いてくれ、朝、揃いも揃ってinstagramに「こんなに楽しい夜は久しぶりだった」と似たような集合写真(ポーズが微妙に違う)をめいめいアップしているのを見たときは本当にうれしかったし泣きそうになった(僕はすぐ泣きそうになる)。万感の思いを込めて僕は1人1人の投稿に「いいね」をした。

僕たちは何に時間を使ってもいい。どんな人でも、1日に24時間をもらえる。その時間を、どんなものに、どれくらい使うか、まったくの自由だ。

僕は靴を磨き、かかとの磨り減りや甲についた傷や、ソールの傷みを確認しながらそのことを考えていた。今履いている靴で一番の古株は、大学3年生の時に買った黒いポストマンシューズだ。たしかセールで2万円くらいだったと思う。もう6年間の付き合いになる。僕にとってとても大切な靴だし、この靴を丁寧にメンテナンスする時間も、この上なく大切に思えた。

自分にとって何が大切か。それは人によって違う。その時によっても違う。ある人にとってそれはライフワークと言える仕事かもしれないし、ある人にとっては子どもの人生そのものかもしれない。同じ人でも、ある時期はガーデニングかもしれないし、ある時期はサーフィンかもしれない、アニメを見ることかもしれない。

でもひとつ確かなのは、大切じゃないことに時間や手間をかけるには僕たちの人生はぜんぜん足りないということだ。大事な靴が5足あったら、全部磨き終わるのに1時間はかかる。久しぶりに会える人と2時間は話したい。身体が大切なら6時間は寝たい。実のところ僕たちの人生とは、ただただ「床磨く日々」のためだけにあるのではないか。人生とはその人の家だ。それぞれの家があり、そこにはそれぞれの部屋があり、そしてそれぞれの床がある。

会社近くの中華料理屋で同期と飲んだ夜も、自分をかわいがってくれた上司とスナックで歌った夜も、僕にとって大切な時間だったと思う。そんな日々が続いた時、僕の意識はふと部屋の床や、シューズボックスの中の革靴に向かった。大切なものは自ずから声を上げ、僕たちをいつも呼んでいるのだ。でも同期と飲みながら靴を磨くことはできないし、上司と歌いながら床を掃くこともできない。だからせめて、声が聞こえたものから大切にしたい。

靴の手入れを終え、床にクイックルワイパーをかけながら、僕はまだ見ぬ自分の子どものことを考えていた。

たぶん、その子がこの世に生まれたら、僕の大切なものはほとんどその子の生活になるだろう。

その時の僕が件の詩を読んでどう思うか、それはその時になって初めてわかることだった。