『パターソン』感想 - ポエムを笑う人も詩に生かされている

角川シネマ新宿で、映画『パターソン』を観た。

paterson-movie.com

Twitterのタイムラインで「見た。よかった」と言っている人が多かったのと、週末の予定がたまたま決まっていなかったのと、公式サイトを覗いてみて好きそうな雰囲気な映画だったので、なんとなく観に行った。ジム・ジャームッシュ監督の威名も、「パターソン」がアメリカ合衆国ニュージャージー州の地名であることも、その時僕は知らなかった。

ネタバレについてタイトルに付けるかどうか迷ったが、特に作品の面白さが著しく損なわれるようなネタバレをすることもこの映画では難しい。「主人公のおじさんが実は死人だった」というような、"致命的なあらすじ"が存在しないからだ。しかし、本稿では可能な限り"あらすじ"の詳述を避けながら、この映画について語ろうと思う。とはいえ、まっさらな気持ちで鑑賞したい方は、続きを読むのを控えた方がいいだろう。

主人公の男は、街の名前と同じ「パターソン」というバスの運転手で、日本の多くの会社員と同様、月曜日から金曜日までは決まった時間に起き、決まった時間に出勤し、決まった時間まで働き(これは日本とは違うか)、決まった時間に帰宅して、決まった時間に晩酌をして眠る。

パターソンは詩を書いている。舞台は現代だが、SNSで発表することもなく、秘密のノートに毎日書きつけている(バスの運転席は、始業前にこっそり詩を書くのにちょうどいい)。今まで書いた詩はきっとかなりの量だ。

パターソンは街の人と打ち解けているが、詩を書いていることはあまり明かしていないようだ。彼はひとりで詩を書く。詩を書いている人に会っても、自分が詩を書いていることは言わずに、相手の詩を褒めたりする。「あなたも詩人?」と問われても「いや」と否定したりする。「自分はバスの運転手だ」。

そりゃそうだ。「詩を書いてる」なんて明かすことはどう考えても恥ずかしい。これは考えるまでもなくほとんどの人が同意することだ。

でも僕たちは(そしてパターソンも)、自分が書いている詩の話はできなくても、詩人の話ならできたりする。谷川俊太郎や、俵万智や、島崎藤村やRAD WIMPSの話は簡単にできる。こうして詩について語ることはできるのに、自分が作る詩についてはとたんに語れなくなってしまう。

素人の作った詩を"ポエム"と呼んで嘲笑の対象にしたがる人は残念ながら多い。このブログの最初の記事で僕は「ポエムを褒められたら性犯罪者と思え」と書いたが、このフレーズにも若干の蔑視的なニュアンスが含まれていることを反省する。"ポエム"が尊重されない風潮の中でこそ、いたずらに褒めてくる人には気を付けてほしいという考えは変わっていないけど……話がそれた。

詩が恥ずかしいというよりは、「詩作」が恥ずかしいという意識が強いのだろう。詩は、その言葉の話者なら誰でも理解できるはずの言葉のありさまをあえて組み換え、日常の機能的言語では表現しきれないことを表現しようとする営みだ。だから、"日常の言葉"以外の言葉の姿態を見慣れない人にとって、それは「よくわからないもの」「なんだか気持ち悪いもの」に映る。

そういう「よくわからないもの」を作るのは、「詩人」「芸術家」という肩書を得た一種の職人の特権であって、素人が手を出しているのは滑稽だ――と、だいたいこういうロジックが"ポエム"を揶揄する人の中では無意識的に展開されているのではないか。

『パターソン』という映画の、その1つの側面は、全ての"詩"に対する圧倒的な肯定だ。

映画の中にはいろいろな人が出てくるけど、もちろん、皆が皆、パターソンのように詩を書いているわけではないし、詩に対して理解があるわけでもない。オープンカーに乗ったマイルドヤンキーや、女の話しかしない男、ハロウィンを楽しみにする小学生……。彼らは一見、いわゆる"詩情"とは無縁の姿でスクリーンに登場する。日常の言葉を使って意思を疎通し合い、真剣に詩集を読んだこともなければ、詩のことなんて全然考えてもいないように見える。

パターソンは、その祈るような暮らしの中で、彼らの話に耳を傾け、日常を生きる人々を見つめ、そして詩を書き、バーで話す。彼の視点を追体験しているうちに、ある時、ふと僕たちは気づくのだ。「なんだ、みんな詩人なんじゃないか」と。

たとえば日本では、振られた男を慰める常套句に「女なんて星の数」というのがある。最近は、「月が綺麗ですね」が"I love you"の意味になるというミームもかなり頑強になってきたようだ。「やまない雨はない」とか「明けない夜はない」とか言う人も多い。仕事を野球でたとえるおじさんもいる。「飼い犬に手をかまれる」とか「藪蛇になる」とか、ことわざを使う人はかなり多い。

これって全部詩じゃないか。

あまりに多くの人が使っているから"詩を諳んじている"という自覚が失われてしまっているが、仕事の先行きに悩んでいる友人に「明けない夜はないよ」なんて言うのは、高度な文脈の抽象化と置き換えを使った詩的表現だ。仕事を野球にたとえたがるおじさんなんて言わずもがなである。あと失恋すると詩みたいなものを口にする人はすごく多い。知らずして、僕たちのコミュニケーションのかなりの部分は「詩」によって下支えされている。

詩を書くことが恥ずかしいことだとしても、ポエムだポエマーだと笑われることだとしても、そう言って笑う人も含め、誰もが毎日詩を紡ぎだしながら生きているのだし、別の言い方をすれば詩によって生かされている。"詩"という浄化ルートがあるからこそ、怒りや悲しみや理不尽を伴う事実を、僕たちは赤ん坊のように泣き喚く以外の方法で処理することができる。

考えてみれば、詩のない世界はなんて退屈だろう。キャッチコピーも詩だ。歌詞も詩だ。日常会話の中にも、先ほど述べたように詩の世界の言葉がたくさん紛れ込んでいる。詩の恩恵に預かりながら詩を遠ざけて馬鹿にするなんて、あまりにつまらないことだ。

そういえば、安心してほしいのだが、『パターソン』の劇中に詩作を馬鹿にするような人は出てこない。ジム・ジャームッシュ監督はこの映画のことを「一種の解毒剤」と表現したが、だとすれば色んな人が飲んでしまった"ポエム"という毒にもきっと効くのだと思う。

詩作をめぐるこの映画からの問いかけは、ある男とパターソンとが静かに会話するシーンに収束していく。

そのやり取りは直接スクリーンで確認してほしいが、そこには「詩を堂々と書いていいのは"そういう人たち"だけ」という呪いを解く、静かな救いがあった。

きっと詩だけではなく、あらゆる表現活動、あらゆる生活を行う人が救われる映画だ。エンタメ的な楽しさや分かりやすいメッセージがあるわけではないけど、もっと重要なことを2時間語り掛けてくれる。どうか、静かな気持ちで、ささやき声に耳を澄ませるように鑑賞してほしい。