人が死ぬということ

大杉漣の訃報をニュース速報としてスマートフォンが受信したとき、僕は人のまばらなオフィスで残業をしていた。

デスクでひとり控えめに驚いて、区切りのいいところまで仕事を進めて退社し、成城石井で夕飯を買って家に帰って食べた。シャワーを浴びて歯を磨いて寝た。

翌朝は早く目が覚めて、ゆっくりと準備をして家を出ることができた。ぱらぱらと雨が降っている——と思ったら、コートに付着したのは白い氷の粒だ。雪が混じっていた。

駅への道を歩きながら、ある言葉が僕の頭の中に去来した。

「死とは、その人と二度と会えなくなること。それ以上でも以下でもない」

うろ覚えのセリフだけど、配偶者を亡くした俳優(男性か女性かも定かでない)が新聞か何かのインタビューでこう答えていたという記憶が、深いところにこびりついていた。(調べたところ、この言葉の出所は作家の伊集院静が『伊集院静の流儀』で語ったことが元のようだ。それを読んだ俳優のインタビューだったのかもしれない)

大杉漣の熱烈なファンだったわけではないが、こんな時はどうしても死について考えてしまう。

僕の尊敬する人はみな死んでいる。そのうちの1人はやなせたかしだ。言うまでもないが、アンパンマンの作者だ。

2013年にやなせたかしが死んだとき、僕は「あぁ、あの人の正義は本当に本物だったんだ」と思った。有名な言葉だがやなせたかしは『アンパンマンの遺書』でこう語っている。

逆転しない正義は 献身と愛だ
目の前で餓死しそうな人がいるとすれば
その人に 一片のパンをあたえること

やなせたかしには弟がいた。人によく愛され、頭も良く(京都帝国大学の法学部に進学している)、万事人より遅れを取りがちだったやなせたかしとは対照的な、自慢の弟だったという。

その弟は回天での特攻に志願して死んだ。

正義のための戦いなんてどこにもないし、正義はある日突然逆転する。逆転しない正義——言い換えれば、"命を賭けるに値する正義"があるとすれば、それは献身と愛だけ……。戦中・戦後の困窮を生き抜いたやなせたかしが掴んだ正義、それが結晶となって生まれたヒーローが、アンパンマンだ。

アンパンマンは弱い。顔が濡れれば弱体化するという致命的な欠点を晒しながらばいきんまんと対峙し、常につけこまれる。そうでなくても、人に顔を分け与えて勝手に弱ったりする。でも、基本的にアンパンマンがヘルメットをかぶってパトロールすることはないし、顔を与え惜しむこともなければ、ばいきんまんに凶器を使うこともない。

アンパンマンが戦っているのはばいきんまんではなく、飢えや、悲しみや、ひもじさや、絶望といった、もっと強大な敵だからだ。

東日本大震災が起きた時、体力的な問題から一度は筆を置いていたやなせたかしは、アンパンマンの絵に添えて被災地の子供たちにこのようなメッセージを送った。

ぼくが空をとんでいくから きっと君をたすけるから

被災直後から、ラジオ局には「アンパンマンのマーチ」のリクエストが殺到したという。あの曲が流れると、地震の恐怖で親から離れられなかった子供たちが喜んで歌い出したそうだ。これほど強力な"正義"を、いまだに僕は他に知らない。

病に冒されながら被災地を巡ったやなせたかしは、あるいはもっと長く生きられたのかもしれない。でも、そんなことは考えるだけ無駄なことだ。

こんな話もある。学生の頃、文芸書籍の編集者から聞いた話だ。(口伝えなのでディテールは事実と少し違うかもしれない)

その人はある歌人の歌集を編集していた。癌で鬼籍に入った歌人だ。歌人といっても死後の話で、生前はサラリーマンとして働いていたという。

癌が見つかり、進行し、余命を過ごすだけの状態に至るまで、彼は妻にも、子にも、飄々と振る舞い弱音を吐くことがなかった。それは気を張って死に抗うというよりもむしろ、穏やかにいつか訪れる死を受け入れているように見えたそうだ。

家族も友人も皆それを不思議がったが、普段から人格者だったのか「あの人はさすがだね。こんな事になっても取り乱さないなんて」なんて言っていたという。

果たして彼が亡くなった後、数冊のノートが見つかった。妻がそのノートを開くと、中には何十首もの短歌が書き連ねてあった。

迫り来る死に恐怖する短歌、検査の数値に僅かな希望を見出す短歌、子を思う短歌、生を悔やむ短歌、何かに怒りをぶつけるだけの短歌もあったという。それでもページが進むにつれ、短歌は静かで穏やかな調子に変わっていった。

それを見た妻の気持ちは計り知れないが、とにかく、出版社に持ち込まれ、僕にこの話をしてくれた編集者の目に触れることになった。

編集者はノートの短歌を読んで、書籍化に向け前向きに、誠実に働きかけることを歌人の妻に約束した。

そして僕には、その時のことをこのように話した。

「私はそのノートに書かれた短歌を読んで、この人は、辛く悲しい思いをたくさんしたけれど、でもたしかに幸福だった、表現者は幸福なんだと思ったんだ。……ロスという精神科医が提唱した"死の受容モデル"というのがある。人間が、自分の余命がわずかであることを知った時に踏む心理状態のステップのこと。……知ってる? 第一段階の"否認"から始まって、"怒り"、"取引"、"抑鬱"、そして最後に死を受け入れる"受容"がある。"受容"まで進める人はそんなにいないんじゃないかな……。でもその旦那さんは、死に抗う四段階を家族の誰ひとりにも見せないまま、誰も傷つけず創作にぶつけ続けて本当に死を"受容"してしまった。表現者にとって、表現するということは、それほどの営みなんだと、こんなに尊いのかと思ったよ……」

僕の母方の祖父は、僕が12歳の時に死んだ。2人姉妹の父親だったから、初孫の姉が生まれた6年後に僕が生まれた時、初めての男の子孫にとても喜んだと聞いている。買い物嫌いな性格なのに、端午の節句を迎える前には上等な鎧兜や鯉のぼりをわざわざ遠出して探しに行った。五月晴れの空を泳ぐ、町内で一番立派な鯉のぼりを飽きることなく見上げていた、とも。

祖父が生きている間、それほどの愛情を僕が感知することはなかった。そもそも祖父と同じ町に住んでいたのは6歳までで、東京に移り住んでからは盆と正月に帰省する時しか顔を合わせなかった。

祖父が亡くなる年の盆、帰京する日に僕はものすごく気分が悪くなって、その時既に肺炎で入院していた祖父の見舞いに一人行けず、がらんとした家の中で皆の帰りを待っていた。僕たちが東京に帰った数か月後に祖父は息を引き取った。

僕は葬式でひどく泣いた。けど、何がそんなに悲しいのかよく分かっていなかった。僕は祖父にべったりな幼少期を過ごしたわけでもないし、なんなら少し祖父のことを怖がっていたのだ。

その日の夜も、四十九日も、百箇日も、一周忌も、三回忌も、七回忌も、祖父を知る人や親戚や家族は、僕を見ると目を細めて口々に語り掛けた。「おじいちゃんは、本当にお前を愛していたんだよ」と。鯉のぼりの話なんか、聞いたのは割と最近だ。生きているうちに教えといてくれよと思わなくもなかったが……。

祖父は小6の秋に死んだから、法事のたびに母は「あんたの中学の制服を見せたら喜んだじゃろうねぇ」と国の訛りで言う。僕が進んだ中高一貫の私立校は、旧制高校がルーツで田舎ウケがよかった。たしかに喜んでくれただろうな、と思う。

そんな祖父が死んでからもう十五年余が経とうとしている。でも僕はなんだか、祖父が生きていた頃よりも彼を身近に感じているのだ。天国で見守ってくれているとか、いつもすぐそばで見てくれているとか、そんな感傷的なことを言うつもりはないけど。

でも、少なくとも、祖父が遺したものの一つが、今ここに生きている僕であることはたぶん間違いがないのだった。それは、アンパンマンや、短歌のように、祖父が死んだ後もこの世界に影響し続ける波のようなものだ。この先の生涯で、もしも僕が誰かを幸せにできるとすれば、それはきっと祖父がこの世界に生まれ、死んでいったことの意味になる。

人が死ぬということは、悲しいことには違いないけど、生きるのと同じくらい悪くはない。きっと。


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筆者: すなば
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