「笑ってもブス」

僕には弟子がいる。ここでは彼をN君と呼ぶ。

どこでどのように弟子をとったのかとかそういう話は置いておいて、N君も自由律俳句をたしなんでいるのだが、彼は5年ほど前、弱冠19歳にして僕が生涯超えることのできないであろう傑作を詠んだ。

笑ってもブス


この句を初めて見た時、僕は「ひでえ句だなぁ!」とひとしきり笑った。その後落ち着いて、胸になお重石のように残るこの句を反芻し、「いや、ほんとうにこれはすごい」とN君に言った。

「すごい自由律俳句だ」

「きみは天才かもしれない」

N君は「え?」と言っていた。

この句に接したときの僕の気持ちだが、最も正確に表す言葉は"救い"かもしれない。

世の中には「きれいな呪い」とでも言うべきものがある。

「努力は報われる」とか「一途な愛はえらい」とか「無報酬の仕事の方が真心があって良い」とかそういうものだ。

例示したような、いくつかの代表的な「きれいな呪い」は既にその欺瞞をほとんど暴かれている。方向性を間違えた努力は報われないし、一途を貫く愛は時として自己満足以外の何物でもなく、仕事は正当な対価を得るからこそ尊い

でも、世の中にはまだまだこのような「きれいな呪い」があって、それはあたかも貨幣のように、皆の信用を糧としてひとつの地盤・ひとつの世界を築き上げている。その地盤の上に立ち、コメンテーターや、アナウンサーや、道徳の教科書が「きれいな話」を語る。


「誰であれ笑顔は美しいもの」というのは、最も強力な類の「きれいな呪い」だ。


顔の美醜なんていうのはしょせん造形の話で、心から幸せそうに笑う顔は誰であれ良いものだ――というストーリーは、今日多くの人が共有して生きている。たぶん、信じていると心地いいのだろう。笑うことは主観的な幸福と強く結びついた生理現象だから、文明人はおそらく「心からの笑顔」を否定することを本能で避けている。

しかし、しかしだ。

そのような最高の笑顔こそを「うわ、ブスだなぁ」と感じてしまう瞬間は、人生に確実にある。だが多くの人は、その一瞬の心の動きを「良い笑顔はブスという言葉でくくっていいものではない」という"呪い"でなかったことにしてしまう。さらには、「この笑顔は心からの笑顔だから"価値"あるものなのだ」と、勝手に値踏みして自分の中の"ブス"という衝動と相殺させたりする。失礼な話だ。

ちなみに、物書きのバイブルとして名高い『日本語の作文技術』で本田勝一はこう語っている。

菫の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を「可憐」なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ可憐なという形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負を決定するところだ、と私は思っている。この一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。

「笑ってもブス」という自由律句のすごいところは「笑って"も"」というところであり、つまり笑う前からブスだと思っていたわけである。

たとえブスでも笑った顔は(少なくとも普段より幾分かは)素敵に見える、というのが、僕たちが知らず知らず寄りかかって生きてきた「正しさ」だ。しかしこの句はそんな「正しさ」を床下からひっくり返してしまった。

笑う前からブスだし、笑ってもやっぱりブスだ――そんな素朴で純粋な観察は、しかし、恐ろしく強大な「通念化の衝動」をくぐり抜け、「きれいな呪い」に真っ向から挑まなければこのような句としてこの世に生まれてこれなかった。

身も蓋もないが、ちっとも露悪的ではなく、赤ん坊のように純粋な"気づき"を描いた句。

「笑ってもブス」という句を思い返すたび、僕は少しだけ深く呼吸ができたような気持ちになる。「笑ってもブス」が存在しない世界は、とても窮屈で息が詰まる。

僕たちは「ブス」だと感じる自由があるし、あまつさえ「笑ってもブス」だと感じる自由もある。「笑ってもブス」という句を心に刻めている限り、僕は「笑ってもブスだなぁ」と感じた時、その心を――そう感じた自分を殺さないでいられる。

あぁ、そう考えると、知らずして「きれいな呪い」は、僕たちの思考や心の大半をもう規定してしまっているのではないだろうか。

表現や行動に多少の規律は必要だろう。でも、自分の心までをも無視したり、殺したり、封じたりしてしまう必要はどこにもない。誰にだって最初からない。

あなたはあなたの思った通りの心で生きていいのだ。これまでも、これからも。


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筆者: すなば
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