幸せを問いかけてくれた人へ

少し前からTwitter質問箱を公開していて、ゆっくりと答えている。質問に答えるというのはいつだって楽しい。

今まで答えた質問の中のひとつに、こんなものがあった。

小さなしあわせを大事にするのは寂しいことですか?

回答する時もずいぶん悩んだけど、あまり答えた気になれなくて、なんとなくこの質問がずっと僕の中に残っていた。

"小さな幸せ"や"ささやかな幸せ"という言葉はよく聞く。「帰り道に花が咲いていた」とか「トーストをうまく焼けた」とか。

では"大きな幸せ"とか"ささやかでない幸せ"もあるのかというと、ありそうだ。「プロポーズを受けた」「友人にバースデーパーティーを開いてもらった」などが思い浮かぶ。

このようにイメージしたところで少し考えたのだけど、幸せって"出来事"のことなのだろうか。

「帰り道に花が咲いていた」ことも、「プロポーズを受けた」ことも、規模の大小はあるが人生における"出来事"と言える。僕たちは"幸せ"を思い浮かべるとき、無意識にこのような"出来事"を思い浮かべてしまうが、そこには「幸せをもたらすもの」と「幸せそのもの」との混同がある。

幸せそれ自体は、水のようなものだ。大量の幸せを一度にもたらしてくれる雨雲のような出来事や、数滴分の幸せを静かに差し出す朝の葉のような出来事――僕たちが"幸せ"に「小さな」「大きな」といった形容をつけるとき、それは幸せそのものというより"幸せがどのようにやってくるか"を表現しようとしているのではないだろうか。

今一度、質問に答えたいと思う。

小さなしあわせを大事にするのは寂しいことですか?

――心の中に幸せを入れる器があったとして、その器に落ちた一滴や二滴の幸せに気づけることは、僕はとても豊かなことだと思います。もっとたくさんの幸せを恒常的に受け取っていても、大して関心を払わない人もいるでしょう。それも決して悪いことではないですが……。

ところで、僕はずっと、あなたの質問にある「寂しい」という言葉が気にかかっていました。僕も最近よく「寂しさ」について考えるからです。「寂しい」という言葉は「幸せ」と同じくらい、込み入った事情と奥行きを持っています。ここで「寂しい」を掘り下げることはしないけれども、なんとなくあなたの言いたいことが分かるような気がします。

「小さなしあわせ」を大事にする人は、静かな心を持っているのだと思います。静かな心とは、よく片付いた部屋のようなものです。水を入れた瓶の中に一滴の水が落ちた時、静かな部屋であればその音がよく響くでしょう。

それを「寂しい」と感じるかもしれませんが、僕はそのような寂しさにこそ生きていく意味がある気がしています。


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筆者: すなば
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