「私、結婚できるのかなぁ」

Instagramを見たら高校生の時に付き合っていた女の子が結婚していた。特別な感慨もなくいいねをしてから1ヶ月くらい経った今、彼女が僕に別れを告げるとき「私、結婚できるのかなぁ」と言っていたのを唐突に思い出した。

この世にはおよそ半々の比率で男女が存在するはずだが、男子校に通っていた僕の世界に登場する女性は極端に少なかった。大体5人くらいだ。うち2人は母と姉である。

彼女も女子校に通っていて、部活動の大会で顔を見かける程度の仲だった。お互い共通の知り合いがいて、なんやかんやで紹介されてなんやかんやで付き合い始めた(告白するときは緊張で吐きそうになった。ここまで1年かかっている)。

女子校に通っていた人ならこれで彼女の人となりが一発で分かると思うが、彼女は学校内では圧倒的な「男役」で、それもスター級だったようだ。一方の僕はパッとしなかった。あえて言うなら中産階級というか、mixiの日記と脚が速いのだけが取り柄だった。

何せ人生で初めてできた彼女だったし、向こうにとってもそうだったから、僕の浮かれようは凄まじかった。結果から言えば3ヶ月しかもたなかった付き合いだったが、その間に修学旅行も文化祭もあって、僕は勝手に濃密な時間を過ごしていた。

勝手に、というのは、その間にも彼女の気持ちはどんどん僕から離れていっていたからだ。彼女は理系難関大学の推薦を狙っていたので受験生よりも勉強漬けの毎日を送っていたが、内部進学の僕はうすらぼんやりとした日々を過ごしていた。ちょうどその頃部活も勉強も伸び悩んでいて、自分の価値の拠り所を"彼女と付き合っていること"に求めようとしている僕の軟弱な精神を、彼女は敏感に察知していたのだと思う。

彼女が僕を袖にする日、「大事な話があるから夜に電話したい」という彼女からのメールをガラケーで何度も何度も見返しながら僕は渋谷のカフェにいた。正面には垢抜けた親友が座っていて、なんとなく察した顔をしながら「いい話かもしれないよ」とか適当なことを言っていた。

その日はクリスマスの翌日だった。渋谷の街は昨日までのムードが嘘のように年末モードに切り替わり、行き交う人々は歳末セールの広告に包囲されていた。道玄坂セガフレード・ザネッティ2階でなすすべなくケータイをパカパカさせながら、僕はこの期に及んで「いい話だといいなぁ」などとのんきなことを考えていた。

プレゼントしたティファニーのネックレスを拒否された翌々日だというのに。

渋谷の西武デパートで買ったティファニー オープンハートのネックレスは、一緒に選んだ6個上の姉と垢抜けた親友のお墨付きだった。

姉は「女子高生の時にこんなの貰ったら超うれし〜」と言っていたし、親友も「まあいいんじゃない」と言っていたから自信の一品だったのだが、代々木のタリーズでそれを渡された彼女は明らかに引いていた。彼女から僕へのプレゼントはNIKEのスポーツタオルで、その日のうちに僕は「高校生には高すぎるから受け取れない。返すね」というメールを彼女から受信した。

カフェでその顛末を聞いた親友が何と言って僕を励ましたか覚えていないが(特に励まされなかったかもしれない)、なんとなくポジティブな気持ちで帰宅したのは覚えている。

しかし当然ながら、「大事な話」とは別れ話だった。

その日、東京は晴れていてひどく寒かった。

メールを交わして電話する時間を午後8時と決め、僕は7時55分くらいにコートを着込んで実家の屋上で待機した。頭上には、オリオン座が教科書の挿絵のようにくっきりと見えた。ドキドキしながら着信を待っている間、全身の震えが寒さによるものなのか、緊張によるものなのか、よくわからなくて少し笑えた。

やがてケータイが光り、震え始めた。ピンク色のライトは彼女からの着信の合図だ。僕は震える手で通話ボタンを押し、耳に当てた。

この3ヶ月の空転ぶりを突きつけられる数分間、僕は相槌を打ちながらずっと夜空を見上げていた。そうする他なかった。頭の中では、中学受験の時に習った冬の星の名前を反復していた。リゲル、ベテルギウスシリウスプロキオン……。

自分が現在置かれている境涯や、僕への気持ち、将来設計、恋愛感情というものの捉え方。貴重な勉強時間を削って、何一つわかっていなかった僕に彼女は一つひとつ教えてくれた。この日まで何度も何度も彼女の中で反復されたであろう、穏やかで、留保なく、付け入る隙もない言葉が冷えた耳に飛び込み続けた。

本当は悩みも苦しみも共有したかった、一緒に悩みたかったんだよ、と後から思ったけど、その時は空を仰いで彼女の言葉を受け止めることが僕の精一杯だった。

そのようにして空を眺めているうちに、一度だけ手をつなぎ、噛み合わないプレゼント交換をした以外は何ひとつ恋人らしいことをしないまま、僕らの関係は区切りを迎えようとしていた。

「あなたが悪いわけじゃない」と何度目かに言ったあと、彼女の声がふいに震えた。笑ったのだ。冗談めかしているようにも、泣きながら笑っているようにも聞こえた。

「こんなんで私、結婚できるのかなぁ?」

僕は彼女に合わせて曖昧に笑うことしかできなかった。ただその一瞬をもって僕は明確に、自分が「扉を開ける権利」を失ったことを了解した。

僕と付き合い、別れることで放った「こんなんで私、結婚できるのかなぁ?」という自嘲から、彼女が解放される時がいつかくるだろう。詩的に言えば、僕と彼女が閉ざしてしまった扉が、再び開く時がくるだろう。しかし、その時扉の前にいて、ドアノブを握っているのは僕ではない別の誰かなのだと思った。それはもう決まってしまったことなのだ。

その時になって急に、別れる実感が襲ってきた。

彼女はどうやら言いたいことを言い、僕は言葉が出てこず、泣いてしまいそうだったからお礼を言って僕は電話を切った。

自分の部屋に戻って、コートを脱いで、勉強机の前の椅子に座ってようやく泣いた。珍しそうに猫が眺めにくる。鼻をかみながら泣いた。噂に聞く"失恋"の当事者になったことの高揚が少しだけあった。そうか、恋ってやつはこんなに泣けるのか、そりゃ歌にもなるわなと感心した。僕が持っていた純真の何割かはこの時涙と一緒に流れてしまったに違いない。

あれからおよそ10年が経ち、あの時の涙などなかったかのように僕は毎日を生きている。別れたあとも彼女とは何度か会ったし、異なる人との別れも何度か経験した。

そのようにして、忘れるほど昔に復活を終えた日常の、あくまで一コマとして見かけたInstagramの投稿が、あの時の物語の幕をひっそりと引いていたのだった。今、彼女の扉は開かれていて、そこには誰かがいる。

こうして続いていくのだと思った。生きている限り多層的に物語は紡がれていく。予告なく始まって、無視されても続き、誰にも気づかれなくても終わる。

でもきっと世界のどこかでは、物語の終わりを告げるメッセージが流れているのだ。その物語の主に見つけてもらうために。


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筆者: すなば
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