メジロを拾った日

自宅から1kmくらい離れたところにある大型の郵便局に受取人指定郵便物を取りに行く途中、歩道に面したビルのガレージに、よもぎ色のふわふわしたものが落ちているのが見えた。メジロの死骸だった。

僕は一瞬だけ歩を止めて、その小鳥のなきがらを見た。白く隈取られた目を閉じて、眠るように横たわっていた。精巧に作られた模型のようにも見えた。僕は視線を前に戻し、また郵便局に向かって歩き出した。

灰色のざらざらしたコンクリートの上に、落としもののように置き去られたメジロの柔らかな羽毛、淡い緑色の滑らかな光沢がいやに目に焼き付いた。生き物の死や可憐なメジロの悲哀といったものに感傷を覚えるよりも先に、自分が、何か許されざる判断違いをしているように思えてならなかった。あの場所は、あのようにしとやかなものが横たわるべき場所なのか。

仲夏の日は強く、道を責めるように差している。郵便物を受け取った僕は、叱られに行く子供のような気持ちで来た道を戻っていた。ガレージが見えたとき、メジロの死骸は変わらずそこに横たわっていた。白い日傘を差した女性が、目もくれずそばを通り過ぎてゆく。気付かなかった人は幸運だ。縁もゆかりもないはずのありふれた一つの死が、いま兄弟のように僕のそばに立って、強く右手を握りしめているのだった。

あまり長い間立っていると人の注目を集めてしまい、またメジロの死骸に気付く人も増え、僕がその死骸のために立ち止まっていることもわかってしまう。想像するだに恐ろしいことだった。僕は何になりたいわけでもなく、またどのような正義も体現したいわけではなく、ただ身を打つ鞭のような何かから赦されたいだけだった。それを誰にも知られたくはなかった。身体にまとわりつく水流のような焦燥に逆らいつつ僕は、死骸に向けた歩みを止めなかった。

全く動かないことを除けば生きていてもおかしくないほど美しい肢体だった。そうでなければこんなことをしようとは思わなかったかもしれない。僕は横たわるメジロに手を差し出してそっとすくい上げた。ここからは見えない、コンクリートに接したメジロのもう半面が、もしかしたら見られないほど焼けただれているかもしれず、虫が湧いているかもしれず、腐り落ちているかもしれない――そんな恐れが身体の動きを鈍らせた。それでも手はあらゆる力をかき分けてついにメジロの体へと達し、親指がその喉元にそっと回り込んで一羽の小鳥を持ち上げた。

右手に触れた羽毛はあまりに柔らかく、薄い皮膚やその下の弾む筋肉、精緻に詰め込まれた小さな内臓、また細く硬い骨の抵抗まで、その生き物を作るあらゆる感触が、右手を通して僕の中になだれ込んできた。焼けても腐っても虫が湧いてもいない、綺麗な死骸だった。

天に向けた左の手のひらにメジロを移し、振り返ってガレージの正面、歩道と車道を隔てる植え込みに向かって歩いた。郵便局に向かっている時から、ずっとこうしようと考えていた動作だった。植え込みの中に、草木に抱かれるような日陰があった。その土の上に僕はメジロの死骸をそっと横たえた。ガレージでそうしていたのと同じ姿勢で。

僕はその場を離れた。

その日僕は、草木の影の湿った地面に横たわるメジロを何度も何度も思い浮かべた。また自分がしたことについても、拭いても拭いても吹き出す汗をなお拭うように反復しなければならなかった。僕は何を許せず、何に赦されたかったのか。アパートの階段に落ちている蝉の死骸には目もくれないのに、メジロの死骸を見過ごしておけなかったのはなぜなのか。

植え込みは公共物だから、定期的に手入れが入るはずだ。その時、あのメジロはどのように扱われるのだろう。ポリ袋に放り込まれ、焼却炉の中でその形を失うだろうか。あちらからこちらに死骸を移しただけの、何の意味もない行動を僕はなぜ突き動かされるように、あるいはほとんど溺れながら藁を掴むような気持ちでしたのだろう。

コンクリートの上では死ねない、と思ったのだ。よもぎ色の羽毛を持つ小さな生き物が、コンクリートでできた、いつ車が帰ってきて踏み潰されるかもわからないガレージでは死ねないと思ったのだ。それだけだった。取り返しのつかない生命の喪失が既に起こってしまったあの時となっては、少なくともコンクリートの上ではなく土の上に――人工のよそよそしい植え込みであろうと、とにかく生き物の死骸を抱き得る土の上に――移しておかずにはいられなかった。

あの時、少なからず僕は、整然とした街並みに突然提示された死に動揺していた。例えば森の中を歩いている時に同じ死骸を見かけたとて、あのような焦りや罪悪感に襲われることはなかっただろう。ガレージで死したメジロのむくろは、蝉の死骸とも、あるいは人混みと規制線に囲まれた投身自殺体とも違った意味を持っていた。あまりにありふれた、しかしあまりにも背景から浮いた死だった。悲鳴を上げているようにも思えた。今までことごとく見過ごしてきた死の輪郭が、その時、予期せぬ形で僕の眼前に現れたのだ。唐突で無感情な死の横顔の、その眼がぎろりと動いて瞬時僕を捉えたのだ。

誰だって一度は、自分が死んだらどうなるだろうと考える。涙を流す人がいて、棺桶に入れられ、炎の中で骨だけになって、墓石の下で眠るだろうか。あるいは、魂というものがあるとして、身体から抜け出して自在に空を往くだろうか。愛する人を、高いところから見守るだろうか。

どれもそうだといいな、と思う。でも、死ぬことはきっと選びようがないことだ。そして、死んでしまった当事者にとっては、生きたものが何をどうしようがもはや関係のないことだ。生者は死を思う。死んでしまったものを悼んだり悲しんだり、時には僕のように錯乱的な儀式に走ったりする。自分にとっての死を思うあまり、とっくに通り過ぎた死の痕跡を、野良犬のように嗅ぎ回る。それはいわば反射のようなもので、本当は何の意味もないことは分かっているのだ。本当に僕たちがどうにかしたいのは、僕たちだけの、一人ひとりに待ち受けている自分自身の死なのだから。

でも、自分自身の死すらも思い通りにならないことを僕たちはもう知っている。知っているから、打ち捨てられたひとつの死骸を見過ごせない日がある。そうやって皆生きているのだと思う。死したものに出会いながら。