日々は日々の桜並木

外でおちおちくしゃみもできないので、家の中で爆音のくしゃみをした。くしゃみ。この牧歌的な生理現象に、今何よりも恐ろしい形容がついてまわっている。自分の体液に、大切な人を死に追いやる粒子が入っている可能性なんて、今まで誰が意識したことがあるだろう。

僕は季節の変わり目に大体風邪を引き、お腹を壊す。タフネスに欠ける自身の身体をそれでも今までは甘やかせるだけ、僕の周囲――つまり世間に体力も余力もあったが、今はそんな雰囲気ではない。体調を崩している場合ではない。そんなことを考え至ってしまうくらいには、自分もこの雰囲気に呑まれているのだと気づく。

年明けから三月末(昨日ですね)まで、五年がかりのプロジェクトが大詰めを迎え仕事は尋常でない忙しさだった。農作業に例えれば、入社前に誰かが種をまき、農夫が代わる代わる懸命に育て受け継いできた大きな作物を、慎重に収穫して出荷するのが僕の役目だった。月の合計残業時間は人事部が決めた上限をやすやすと突破し、異常なプレッシャーの中で張り詰めた精神が体調の悪化を許さず、僕は例年弱りきって迎える春をぎらぎらした眼で歓迎した。

そういういきさつで、柄にもなく元気だ。でもそのうち反動がくるだろう。たくさん寝ることでしか緩和できない反動だろうと思う。たくさん寝る必要がある。

「休日の外出自粛」は、「もう寝るしかない」という早まった結論に近道を作った。休日にやることの選択肢は多い。こうでもしないと休日に思い切って眠れない人もいるのだろうから、そういう意味では悪いことばかりではないのだろう。悪いことの方が多いのは確かだが。

明日がどうなるか、来週に見える景色が今と同じかどうか、誰にもわからない。そんな当たり前の警句が今ほど生々しく感じられる日々はない。突貫工事で整えられていく勤務先のリモートワーク態勢に、日ごと緑の葉に変わっていく桜に、毎日のように発表される政策に、自分がどうしようもなく現在性の中を生きていることを知らしめられる。

通勤途中(週の半分は今も通勤している)に目黒川沿いの桜並木を通るのだが、人通りが減ったとはいえ今も夜桜を見上げるカップルや団体がけっこういる。何があろうと桜は咲くのだ。美しいはらわたを見せつけるように。

人間だけが、不安げに家にこもったり恐る恐る外に出たりしている。生物の時間に行う実験みたいだと思った。小さな生き物がうようよする水槽の中に、ほんのひと粒の小さな砂のようなものを落とす。砂は霧消し、みるみるうちにその生き物は(まるで何かに追われるように)物陰に身を隠そうとする。広くなった水中にはきっと別の生き物が泳ぐだろう。

誰もいない、満開の桜並木と、その下を歩く生き物を思い浮かべる。何でもいいけど、マスクをしていない何かであってほしいな、と思った。もうすぐ日本中にマスクが配られる。