傷つけられた人へ

誰かのしたことでちょっと傷つくことがあった。

それを猛烈に批判する意見をTwitterで見かけ、ついその意見に乗っかって、傷つけられた悲しみを呟いて怒りを表明しそうになった。が、すんでのところで僕はそれをこらえた。地下鉄に揺られながら、何度も何度もツイートを書いたり消したりしていた。

駅を降りて少し歩き、自分を説得するようにこのようなツイートをした。

自分を傷つけたものや不正義だと感じたものに対して、僕たちは怒っていい。怒りをおさえる必要はどこにもない。

でも、自分を傷つけるものは遍在している。

そこに悪意のあるなしは関係なく、暴力も悲しみも怒りも、そこかしこに存在している。自分に触れて傷つけるものも当然、ある。

何かに傷つけられて、その反応として怒るということは、自分を傷つけた"何か"に引き寄せられているということだ。絶対にそれが必要な時もある。全力で殴って拳を痛めないといけない瞬間もある。

でも僕たちは、本当は歩くべき道があるはずで、歩いていた道があるはずなのだ。何かに傷つけられて怒る時、僕たちはその道をはみ出して、足を踏み込んで、自分を傷つけたものを睨めつけている。

だから、自分の怒りを僕たちは飼い慣らさなければいけない。

僕たちが本当にやるべきことは、特定の誰かや何かに対して怒ることではなくて、ただ自分が本当だと思うことや、善いと思うことや、美しいと思うことを突き詰めていくことだ。手を差し伸べられる人に差し伸べることだ。怒りや暴力と同じように遍在している愛や祈りについて注意深くあることだ。

自分を傷つけるものや、自分の大切な人やものを侮辱するものや、あらゆる不正義を、安穏と見過ごせというのでも知らぬふりをして平静を装って生きろというのでもない。むしろ徹底的に戦わないといけない。生きるとは絶望的なまでに終わらない戦いだ。

前田英樹『剣の法』(筑摩書房)にこのような一節がある。

〈反発〉の原理による命のやりとりは、どこまでいっても先の見えない、相対的な勝ち負けしかもたらしません。そこでは、ちょっとした偶然がすべてを決めてしまう場合が、何と多いことでしょう。このことは、戦場往来に明け暮れていた武士たちほど身に沁みて知っていたに違いありません。この相対性と偶然性の泥沼の向こう側に、彼らが望んでやまなかった兵法の理想がある。

〈反発〉を消して、相手の動きとひとつになるところでは、普通の意味での勝敗もまた消えます。ここでは、対手との間に自分が求めるひとつの世界を誤りなく創り出すことが、〈勝つ〉ことになります。

『剣の法』は十六世紀に生まれた剣術「新陰流」の術理を詳述した本だが、引用した章では「反発の原理から脱け出す」ことがこの兵法の理想であることを説いている。相手の動きに逆らって自分の動きを押し通すのではなく、相手の動きの中に自分の動きを影のごとく潜ませる。すると相手が斬る動作を終えた頃には、逆に相手が自分に斬られている。

「傷つけられたから怒る」「不正義を糾弾する」。これらはいずれも圧倒的に正しい。人間として正しい。でも、正しいことが常に勝てるわけではない。勝つ、とは相手を負かすことではない。自分の求める世界をそこに創ることなのだ。

不正義や暴力や怒りや悲しみが抗し得ない世界を創り出す。そのための営みこそが戦いで、僕たちが歩くべき道だ。"世界を創り出す"とは、世界平和みたいなことを言っているのではなく、ただ自分にとっての完璧さを目指すということだ。握りしめた拳を歯噛みしながら解いて、創るための営為をしなければいけない。

"反発"としての怒りは、燃え上がりやすく、瞬発的で、誘爆しやすい。怒りは怒りを呼び、その怒りが大きなうねりになって世の中を変えたことはあった。差し迫った命の危機に、"反発"としての怒りはその是非を問うまでもなく必要だ。

でも僕たちが普段戦わなければいけないのは、日常の中にほとんど埋没した理不尽や、自分以外には気づかない暴力や、耳触りのいい悪意、もっともらしい嘘といったもので、それは巧妙な擬態で怒りをかわす。怒りは、小さく刺すような不正義に対して意味を持てない。だから過たず歩くのだ。祈るように創るのだ。

このようなことを考える時、僕はいつも雨に打たれる人を思い浮かべる。雨に怒り、空に拳をふりかざすことではなくて、木を切って集め、柱を立て、屋根を作り、その下で雨について考えることが戦うということであって、生きるということではないだろうか。

あなたが誰かに(あるいは何かに)怒りを覚えたとして、それをためらう必要はない。でもその怒りの炎は敵を焼き殺すためではなくて、あなたの大切な人を暖めたり、行く道を照らしたり、何か大きな力を生むものを動かしたりするために使ってほしいと思う。


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筆者: すなば
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