エモいとは何なのか
気付けば皆「エモい」と言うようになっているがそもそも「エモい」ってどういう意味なんだろうか。という素朴な疑問に「古語の"をかし"や"あはれ"と同じだよ」みたいなことをしたり顔(想像) で返す人もいるが、微妙に納得できるようでできない。"をかし"が日常で使われなくなってから何百年経っていると思っているのだ。
きっと今までは「なんかいい」「なんかオシャレ」「雰囲気いいね」とかその辺の言葉で表現できていた概念が、それらの言葉では替えが利かなくなり始めたから「エモい」が台頭してきているのだと思う。
僕も「エモい」という言葉を使うが、「エモい」は「あはれ」ではないし、同時に「エモい」以上でも以下でもないのだ。
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「エモい」という言葉は音楽ジャンルの"エモーショナルハードコア"からその文脈を発しているように思うが、急激に使用者が多くなったのは2010年代に入ってからではないだろうか。
この間、人々が情緒を表現するにあたり多大な影響を与えたものがある。言うまでもなくSNSであり、Twitterであり、Instagramだ。
特に人々の美意識について、Instagramは「インスタ映え」という新たな概念を生み出した。
お洒落な空間、気の利いたデザイン、彩り豊かな食事などなど、視覚的に品質の高いもののほとんど全ては「インスタ映え」の文脈に回収される可能性を高く持っている。
また、ご存じの通り「インスタ映え」とは、「"いいね"をもらう」「褒められる」「拡散してもらう」といった「他者の視点」を強烈に含んだ概念だ。
「インスタ映え」が台頭し、インスタグラマーが登場し、人々は物事の視覚品質に敏感になった。整ったもの、美しいもの、情緒のあるものは、相対的にその価値をより上げた。
しかし同時に、無意識下に「美しいものとは、より多くの"いいね"を集めるものである」という価値観をも生んでしまった。
もちろんそんなわけはないし、頭では皆分かっているのだが、「インスタ映えするかどうか」が物事の美しさ、感動の度合い、"良さ"を判断する上での一つの指標に仲間入りしてしまったことは事実だろう。
でも、美しさとは本来、見聞きする人がそれぞれ判断するものだし、感動もその人個人のものだ。
だから、InstagramなどのSNS文化に距離が近く、美意識に敏感な人ほど、その人個人の「美しい」「良い」という感動を表現するとき、「インスタ映え」という指標を意識的に排除する必要に迫られた。そうして使われるようになった言葉が「エモい」なのだと思う。
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「エモい」とはつまり「心動かされた」ということだ。そしてそれは、どのSNSやコミュニティからの要請でもなく、「自分自身がそう感じた」感動の事だ。
「エモい」という言葉の使われ方に違和感を覚える人も多いのは、SNS文化から一定の距離を置いている人にとって、感動を表明するのに「"いいね"集めを企図しているかどうか」を(無意識に)気にしてしまうような気持ちにピンとこないからだろう。
「エモい」とは、自分の覚えた感動を「インスタ映え」から保護するための、感受性の防波堤なのだ。
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筆者: すなば
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幸せを問いかけてくれた人へ
少し前からTwitterで質問箱を公開していて、ゆっくりと答えている。質問に答えるというのはいつだって楽しい。
今まで答えた質問の中のひとつに、こんなものがあった。
小さなしあわせを大事にするのは寂しいことですか?
回答する時もずいぶん悩んだけど、あまり答えた気になれなくて、なんとなくこの質問がずっと僕の中に残っていた。
本記事は加筆修正のうえ『さよならシティボーイ』に収録されています。WEBでの公開は停止しております。
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筆者: すなば
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「笑ってもブス」
僕には弟子がいる。ここでは彼をN君と呼ぶ。
どこでどのように弟子をとったのかとかそういう話は置いておいて、N君も自由律俳句をたしなんでいるのだが、彼は5年ほど前、弱冠19歳にして僕が生涯超えることのできないであろう傑作を詠んだ。
笑ってもブス
この句を初めて見た時、僕は「ひでえ句だなぁ!」とひとしきり笑った。その後落ち着いて、胸になお重石のように残るこの句を反芻し、「いや、ほんとうにこれはすごい」とN君に言った。
「すごい自由律俳句だ」
「きみは天才かもしれない」
N君は「え?」と言っていた。
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筆者: すなば
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