幸せを問いかけてくれた人へ

少し前からTwitter質問箱を公開していて、ゆっくりと答えている。質問に答えるというのはいつだって楽しい。

今まで答えた質問の中のひとつに、こんなものがあった。

小さなしあわせを大事にするのは寂しいことですか?

回答する時もずいぶん悩んだけど、あまり答えた気になれなくて、なんとなくこの質問がずっと僕の中に残っていた。

本記事は加筆修正のうえ『さよならシティボーイ』に収録されています。WEBでの公開は停止しております。


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筆者: すなば
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「笑ってもブス」

僕には弟子がいる。ここでは彼をN君と呼ぶ。

どこでどのように弟子をとったのかとかそういう話は置いておいて、N君も自由律俳句をたしなんでいるのだが、彼は5年ほど前、弱冠19歳にして僕が生涯超えることのできないであろう傑作を詠んだ。

笑ってもブス


この句を初めて見た時、僕は「ひでえ句だなぁ!」とひとしきり笑った。その後落ち着いて、胸になお重石のように残るこの句を反芻し、「いや、ほんとうにこれはすごい」とN君に言った。

「すごい自由律俳句だ」

「きみは天才かもしれない」

N君は「え?」と言っていた。

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人が死ぬということ

大杉漣の訃報をニュース速報としてスマートフォンが受信したとき、僕は人のまばらなオフィスで残業をしていた。

デスクでひとり控えめに驚いて、区切りのいいところまで仕事を進めて退社し、成城石井で夕飯を買って家に帰って食べた。シャワーを浴びて歯を磨いて寝た。

翌朝は早く目が覚めて、ゆっくりと準備をして家を出ることができた。ぱらぱらと雨が降っている——と思ったら、コートに付着したのは白い氷の粒だ。雪が混じっていた。

駅への道を歩きながら、ある言葉が僕の頭の中に去来した。

「死とは、その人と二度と会えなくなること。それ以上でも以下でもない」

うろ覚えのセリフだけど、配偶者を亡くした俳優(男性か女性かも定かでない)が新聞か何かのインタビューでこう答えていたという記憶が、深いところにこびりついていた。(調べたところ、この言葉の出所は作家の伊集院静が『伊集院静の流儀』で語ったことが元のようだ。それを読んだ俳優のインタビューだったのかもしれない)

大杉漣の熱烈なファンだったわけではないが、こんな時はどうしても死について考えてしまう。

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