自由律俳句は俳句じゃないと思っている人へ

自由律俳句、特に無季自由律俳句は、「ただの文じゃん」「俺でも書ける」という批判にさらされることが多い。

韻文をかじった人の中には自由律に対しても理解がある人が多いが、それは詩の文脈に自らを置いているからいわば「詩をかぎ分ける嗅覚」のようなものが育っているためで、その手の文芸に触れる機会の少ない大多数の人にとっては自由律俳句がただの短文だと勘違いされるのも無理からぬ話である。

しかし、はっきりと言っておきたいのだが、自由律俳句は俳句である。

俳句を俳句たらしめているものは何だろうか。

・5/7/5のリズム
・季語

ほとんどの人はこの2つを挙げるだろう。

ところで、もともと俳句は"連歌"という七五調の言葉をつなげていく遊びの"発句"つまりしりとり遊びで言うところの「俺からいくよ! じゃあ、しりとりの"り"!」という口火を切るための気軽な韻文詩が独立したものだ。

5/7/5の定型は、いわばその時の名残である。連歌は5/7/5→7/7→5/7/5→7/7→5/7/5→7/7……と人を変えながら果てしなく和歌を続けていく遊びであるため、和歌の5/7/5/7/7から最初の3節が残ったというわけだ。

そして俳句に限らず韻文詩、つまり"歌"には、日常と同じ語彙を扱いながら、日常の言葉遣いや文脈とは離れた世界に人々を連れて行ってくれる力がある。

これも連歌の光景を思い浮かべるとわかりやすい。さっきまでぺらぺらと普通の言葉でしゃべっていた仲間たちが、5/7/5の発句をきっかけに、改まってリズムのある言葉をつなげていく。それは、リズムのある言葉が"歌"になり、日常の言葉から切り離された世界を形作る様子だ。

これはなんだかカラオケに似ている。

いわば俳句とは、カラオケの1番だけを歌うようなものだ。

メロディーが決められた曲の1番を、それぞれ好きな歌詞を当てはめて歌い、そのできを披露しあうような営みだ。

季語について話す。次の句を見てほしい。

妻の遺品ならざるはなし春星も

右城暮石

字余りの句だがそれは置いておいて、この句の季語は「春星(しゅんせい)」つまり春の星である。

寒さが緩んだ柔らかな夜の空気。潤んだ膜のような暗天に瞬く宝石のような星すら、妻が自分に遺したもののように思える。そういう俳句だ。深く愛する人を亡くした男の、越えてきた悲しみの大きさや愛の深さをしみじみと感じる美しい句である。

たった18字からここまでの情景を感じ取れるのは、季語の持つ世界の広がりのおかげだ。

手元にある角川学芸出版の歳時記を見ると、「春の星」の項にはこう書いてある。

春の星は、柔らかい夜気に潤みつつ、しきりに瞬く。

青空に映える夏の入道雲を見ると小学校の夏休みを連想する人が多いように、季語には一定のお約束というか、その言葉が内包する無数の情景とストーリーがあるのだ。

この句が「夏の星」でも「冬の星」でもなく「春の星」でなければいけない理由は、その星を「妻の遺品ならざるはなし」と断定する心情の微妙な危うさにある。

妻の死に悲嘆している風でもなければ、完全にその悲しみを乗り越えて前を向いている風でもない。「あの星も妻が自分に遺したものなのだ」と感じる、半ば死を受け止めつつあり半ばではまだ妻の姿を夢想している、そんな情景は「春の星」以外にあり得ないのだ。

ちなみに「夏の星」は歳時記でこう解説されている。

夏は高原や海岸で星空を仰ぐ機会も多く、星にも涼しさが感じられる。

爽やかである。昼間の暑さがやわらいだ夏の夜、見上げる星は美しく清冽だ。「妻の遺品ならざるはなし夏星(なつぼし)も」もいい句だが、なんだか爽やかで別れをすっぱりと整理した男の姿が浮かぶ。傍らに再婚相手すらいそうだ。

そして、「冬の星」はこうである。

冬は大気が澄み、凍空の星の光は鋭い。

身を切る寒さと、澄んでどこまでも暗い空、刃物のように鋭い星の光。妻を想うには少し悲しすぎる情景ではなかろうか。「妻の遺品ならざるはなし冬星も」。だめだ、思いとどまれ、と言いたくなる。

ちなみに秋には「星月夜」や「天の川」という季語があるが、ここまでくると妻の遺品と断定してしまうには少し華美すぎる気もする。満天の天の川を指して「妻の遺品ならざるはなし」と言っている男はちょっと自分に酔いすぎだ。「妻の遺品ならざるはなし天の川」「妻の遺品ならざるはなし星月夜」。うん、これは王子様の句である。一人の凡夫が、夜闇の中静かに妻を悼む。そんな悲しくも美しい情景はやはり、「春の星」以外では描けない。

ここまでの話を踏まえると、俳句は大まかに言って次のような営みであると再定義できる。


「決められたメロディーで、お題を1つ選んで替え歌を作る遊び」


ここでやっと自由律俳句の話になるのだが、自由律俳句のフロンティアを切り開いた男たちはむしろ、俳句に芸術性を求めた結果として"定型の放棄"という答えに行き着いたのだ。

簡単に言うと、「替え歌には表現に限界がある。俺たちは自分で曲も作る」という発想である。

さらに彼らはこの発想にたどりつく。「お題を必ず選ばなければいけないのもナンセンスだ。"お約束"に頼らずとも、言葉それ自体に意味と情景が宿る。お題など必要ない」。

たしかに季語の中には「木流し」や「竹婦人」など現代の生活習慣と乖離したものもあるので、俳句に親しんでいない人がこれらの言葉に情景を読み取ることは難しい。

この辺の経緯は、偉大な俳人の名前とエピソードを出しながら資料を引用しつつ書くこともできなくはない。しかし今回は概要だけにとどめておこう。かなり乱暴なたとえ話をしている自覚はあるが、自由律俳句とは俳句の文芸としての純粋さを極限まで追究したがゆえに生まれた形式なのだ、ということが伝われば十分だ。

さて、自由律俳句のシンガーたちは替え歌(定型)こそ放棄したものの、メロディー(韻律)自体を放棄したわけではない。彼らは定型としての普遍性を捨て去った代わりに、自分の心を動かした情景そのものが持つ、言うなれば"現前するリズム"を捉えることに腐心した。

ゆえに彼らの句にはみな、1つひとつ固有のリズムがある。リズムを持たない散文であるところの「ただの文」とは、この点において決定的に違っている。

なんとなしに理解が深まったところで、おそらくは日本でもっとも有名な自由律俳句を鑑賞してみよう。

咳をしても一人

尾崎放哉

「咳」は冬の季語なので無季自由律俳句ではないのだが、おそらく放哉は季語を入れるつもりで「咳」という言葉を選んだわけではないだろう。それは彼の境遇を考えれば容易に想像のつくことだが、ここで言及するのはやめておこう。

この句のリズムは

咳を/しても/一人

の3/3/3だ。ぽつ、ぽつ、ぽつと虚空に溶けて消えていくようなメロディーだ。一瞬だけ胸と喉を震わせる咳の音が、この断片的なリズムと重なる。意味とリズムが重なり合い、寂静の情景をそこに作り出している。

この調子でもう何句か放哉の自由律俳句を鑑賞しよう。

花火があがる空のほうが町だよ

この句はどんなリズムだろうか。

花火があがる/空のほうが/町だよ

花火が/あがる/空のほうが町だよ

どちらでも読める。そしてどちらでも美しい句だ。このように、時として自由律俳句は、リズムの選択を読み手に委ねる。時を越え、詠み手と読み手の響き合いがそこに生まれる。

次はこれ。

あらしがすつかり青空にしてしまつた

この句には季語もない。無季自由律俳句である。リズムの解釈は自由だが、僕は「あらしがすつかり/青空に/してしまつた」の8/5/6で読んでいる。人によっては8/11だったり4/4/5/6だったりもするだろう。

季語の持つ膨大な情報量に頼ることもできず、リズムも慣れ親しんだものではない。

だからこそ自由律俳句は、作品の鑑賞者に深く深く入り込んでいく。

そこにある言葉は、古来から日本人が営々と育んできた美意識、伝統、そんなものとは一切関係のない生の言葉だ。俳人が一瞬の心の動きを捕らえて句帳に叩きつけた鮮烈な情景だ。ただその情景は、鑑賞者の記憶の中にある「あらし」や「青空」の像と結びついてのみ、よみがえるのを待っている。

どこまでもストイックで、どこまでも純粋で、どこまでも人間本位な詩だとは思わないだろうか。

熱くなってしまったので次の句にいこう。

うそをついたやうな昼の月がある

静かで絵画的な句である。昼の月に"うそ"を感じてしまう気持ちになったこと、一度は経験のある人が多いだろう。

打ちそこねた釘が首を曲げた

悲しい。首を曲げた釘はもう役には立たず、打ち損ねた徒労感と自分へのかすかな諦めが漂う一句だ。句の持つ悲しさが、首を曲げた釘という光景を見つめる"こちら側"の気持ちとして再生される。

いつしかついて来た犬と浜辺に居る

僕はこの句のどうしようもなさがとても好きで、「全て嫌になって公園に犬」というアンサーソングを詠んだことがある。

どうだろう。

僕の主な主張は「自由律俳句は俳句の中の俳句である」というものなのだが、少なくとも「ただの文」でないことはなんとなくわかってもらえただろうか。

俳句には、季重なりや季違い、切れ字、一物仕立て、取り合わせ、などなど様々な型や作法がある。逆に言えば、これらの作法のもつ力、定型の美しさを利用してすぐれた作品を生み出すことができる文芸だ。(※これは決して、俳句が簡単だと言っているのではない)

一方で、自由律俳句には何のルールもない。しかし、ルールがないから「ただの文」に成り下がるような半端な文芸でもない。

そこには、自分の心を動かした一瞬の衝撃が鳴らす音を捉えるため、それ以外のすべてを放棄した獣のような詩人の魂があるのみだ。


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筆者: すなば
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男子校出身者の恋と最後の戦場

shiho氏のこの記事を読んで非常に思うところあり、男子校出身者としての所見を述べてみようと思う次第だ。

note.mu

うんこを漏らした記事でも触れたが、僕は中高6年間、都内の一貫校に通っていた。男子校である。うんこを漏らした翌週はからかわれこそされたが、いじめに発展するようなことはなかった。その時、僕の腹の底を「共学だったら死んでいた」という根拠のない確信が冷たく横切ったのを覚えている。

男子校の環境については、異性の目がない(それどころか存在すらない)ため「ヤンキーもオタクも対等で仲がいい」とか「いじめがほとんどない」とか巷間でいろいろ言われているけどまぁ大体当たっていると考えていいのではないか。しかしそれは一定の偏差値水準を越えた男子校に限られる話であるとも思う。

要は「(育ちのいい)ヤンキー(ぶってる生徒)と(なるべくしてなった)オタク」との間に、「女に良い格好したい」という至上命題が絡まない限り対立の起こる要素が少ないということなのだ。対等というよりお互いにあまり関心がないという方が正しい。

それに、ヤンキーというかイケメングループには大体にしてお抱えの天才ハッカーが1人はいるものなので、スマホやゲーム機のトラブル、違法動画のダウンロードや他校の女子生徒のアカウント特定などは在野のオタクの手を借りるまでもないのである。

話がそれた。

shiho氏は冒頭の記事において、女子高出身者についてこう語っている。

……これは完全に偏った自論だけど、女子校というのは「なんでもひとりでできる女」と「なんにもひとりでできない女」を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンみたいなものだ。
(中略)
男子に対する免疫ゼロな女子校出身者にこのふたつの要素を掛け合わせると、

・男子に対する免疫ゼロ×なんでもひとりでできる女=ヒモと付き合う
・男子に対する免疫ゼロ×なんにもできない女=彼氏に依存する

みたいな感じになる(極端な例だけど、近いケースは恐らくすごく多いです)。

女子高出身者の特質については僕もかなり思うところあるのだがそれはひとまず置いておいて、このように男子校出身者について語るとしよう。

男子校という環境は良くも悪くも生徒の個性を野放図に伸ばしてしまう傾向があるため、オタクはとことんオタクになるし、上位1%のイケてるグループはセブンティーン誌のDK座談会とかに出たりして大学卒業後も続く華やかな交友関係の基盤を築き、他方では幼少の頃からの趣味である昆虫採集に情熱を傾け続け趣味が高じて養老孟司的な業界の有名人と仲が良くなったりする生徒もいる。

そんな中で浮き彫りになってしまうのが、「自分という存在の限界」だ。

男子校は、生徒の個性を伸ばしやすい環境である一方で、「個性を自覚していない生徒」に対してはけっこう過酷な環境になり得る。

共学では(共学を知らないので想像上の共学だが)学年のトップクラスの地位を築けるような、「調子がよく」「空気を読むのがうまい」生徒は、しかしそれだけでは男子校では埋没してしまうのだ。男子校は「一芸こそ価値」という空気感が支配的で、イケてない生徒でも何か突出したスキルや打ち込んでいるものある生徒が一目置かれる。この「一目置かれる」という概念が重要で、男子校はメンツの世界なのだ。

僕の代にも、「意地でも水泳の授業を受けない」という一点でのみ全校生徒の尊敬を一身に集めている生徒がいた。強面の体育教師に「水がトラウマなんです」と言い張り30分粘った末に全授業の欠席を認めさせ単位も取得したことは今でも語り草だ。ちなみにトラウマというのは嘘である。そしてなぜ彼がそこまで水泳の授業を固辞したのか、理由は今でも誰も知らない。

また話がそれたが、つまり男子校では早々に自分の限界を思い知ってしまう生徒が一定の割合出てくる。shiho氏風に表現するなら、

「マイワールドを構築した男」
「凡庸を自覚してしまった男」

を一定の割合を保ちながら排出し続ける恐ろしいマシーンなのだ。

この2種類の男が恋愛においていかに厄介な存在であるか、勘のいい方はすでにお気づきだと思う。

前者は、ブレない自分の世界観を確立してしまったがために恋愛で苦戦することが多い。森見登美彦の小説『太陽の塔』に出てくる一場面の引用をその説明に代えたい。

 飾磨は女性と付き合ったことがある。
 彼は塾講師のアルバイトをして生活費を稼いでいたが、塾生徒の女子高生をつかまえた。品良く言い直せば、職権を濫用してたぶらかしていてもうたのである。
(中略)
 梅田のヘップファイブに赤い観覧車がある。私はまだ見たことがなかったが、それは毎日若き男女を載せてぐるぐる飽きもせず同じ場所を回っているという話だった。飾磨は彼女と大阪へ出かけたついでに、音に聞くその観覧車に乗りに行った。
 順番を待ちながら、彼は少しそわそわしていた。二人の間に交わされた言葉は想像すべくもないが、はたから見れば普通のカップルに見えたろう。やがて順番が巡ってきて、彼はゴンドラに乗り込んだ。彼女が続いて乗り込もうとすると、彼は厳然とそれを押しとどめた。
「これは俺のゴンドラ」
 毅然とした台詞を彼女に残して、彼がぐるりと梅田の空を一周して戻って来たとき、彼女はもういなかった。これは本当の話である。

これは極端な例だが、それがたとえ女性受けする世界観であったとしても、どこかで必ず衝突あるいはすれ違いの時がくる。その時彼女は、謎の自信にあふれた彼の決めつけに愕然とするだろう。長くなるのでこの種の男性について詳しく紹介するのはまたの機会に譲ろう。

さて「凡庸を自覚してしまった男」についてである。

彼はエキセントリックな生徒が多い男子校で可もなく不可もない学校生活を送ってきたためか、思いのほか共学の大学に進んでも順応が早い。共学出身者に交じって一見楽しそうに学校生活を送ったりする。就活も順当に終わらせることが多い。

普通に彼女もできる。

そして普通に結婚するだろう。

しかし、彼の腹の底には大変高い確率で「失われた青春」という爆弾が眠っている。

これはつまり、打ち込むべきものが何もなかった高校時代の雪辱を果たさんとするソルジャーの魂だ。

部活も、バンドも、映画も、昆虫採集も、女の子も、何もなく、個性を輝かせる生徒を横目に見ながら、なんとなく楽しくへらへらと学校生活を送ったことへの復讐心である。

彼は傍観者であったがゆえに満たされない功名心を抱えている。生涯それを抱えたまま人生を終えることもあるだろう。しかし、多くの場合どこかでそれは爆発する。

「大学デビュー」という形で爆発させられた人は幸運だ。男子校でのいわゆる"陰キャ"が大学に入った途端髪を茶色に染め活動内容が不明なサークルに入り飲み会に明け暮れ夏休みには原付で日本一周を試みて三重あたりで挫折するようなパターンである。

厄介なのは、それなりにネームバリューのある会社の一員となったことに妙な自信を見出してしまうパターンである。

企業名には魔力がある。一人の人間を"何者か"に仕立ててくれる魔法の装置だ。朴訥な青年を証券マンに、お調子者の男を商社マンに、気のいい男を不動産営業に。はなはなだしい場合は、名前ではなく「三井物産の彼」「電通の彼」「森ビルの彼」と呼ばれることもあるし決して珍しい光景ではない。

こうした企業名を手にすることで、高校時代に果たせなかった"出世"を始めて果たせたように感じる人がいる。

4年越しの出世を果たした男が何を望むか。それは、高校時代に見上げていた者たちがしていたことの追体験だ。

男子校で輝いていた生徒は種々雑多なことに打ち込んでいたが、"出世"を果たした社会人になってから自分も真似できることは少ない。となると残る選択肢は、

「他校の女子と遊ぶ」

これである。

結果として、"女慣れしていない遊び人"という謎の人材が誕生する。

それでも合コンを絶え間なく開けるだけの人脈や積極性があればまだいい方で、アラサーになってもグズグズと遊びたい欲求をもてあそびながら鬱屈している男も少なくない。

そういう男がたどり着く最後の戦場が婚活パーティーだ。

彼が遊び人であることは「企業名」というアイデンティティに支えられているため、スペックは立派だ。婚活パーティーではモテる。女性とカップルが成立する。連絡先を交換する。

しかし、話してみると何かが足りない。

それを一律に言語化するのは難しい。女性にもジレンマがある。彼がしっくりこないのは自分のわがままなのではないかと思う。多少の欠点は我慢せねば、と思う。

しかし僕はひとつヒントを出したい。

彼は男子校出身ではないのか?

彼は、あなたのことをまだ「他校の女子」としか見れていないのではないか?

彼がしているのは婚活でも恋愛でもなく、青春の弔い合戦ではないのか?

特に高校時代の思い出話をたくさんしてくるorたくさん聞いてくる男には注意していただきたい。

今日言いたいことは以上だ。


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筆者: すなば
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彼女と別れて1週間の編集者がオススメする最強の合コン服

服を買った。

ユニクロ以外で服を買うのは実に約1年ぶりで、というのも、友達がいないくせに飲み会は多いのでバンバン金が飛んでいくし東京の家賃は高いし料理もしないので食事は全部外食という感じでファッションに割く金などありようがなく、そこにきて3か月前から計画していた旅行があったりして口座も財布も息の根を止められつつあった。そんな僕が服を買った。しかも伊勢丹で買った。新宿の、伊勢丹、メンズ館だ。あまりに中国人が多いので「ここは上海か?」と思ったけど国際都市で様々な人種が行きかう上海よりも比率としては多かった気がするぞ。上海行ったことないけど。

虎の子の8万円をここにきてなぜ服につぎ込んだかというと彼女と別れたからなんです。そのことについて長々と語るつもりはないが、とにかく、僕は新しい服を買おうと思った。別れを切り出したのは僕だが別に束縛されていたわけではないからそこに解放感などなく、できた時間でやりたいこともなく、ほかに好きな人なんていないし、適当にへらへら合コンでもしながら日々を送るか来週誕生日だけど。1カ月後クリスマスだけど。などと考えていたが一つだけ自由になったものがあった。今まで恋人との時間に投資してきたお金だ。これを服に使おうと思った。

もともと僕は服とかファッションが好きな方で、大学時代はキャンパス近くの古着屋に入り浸っては店員の口車に乗って乗って乗りまくりレディースの赤いベロアジャケットなんかを購入して悦に入っていたタイプの救いようがない学生だったのだが、幸いなことに今はその嗜好も多少は落ち着いてワードローブもずいぶん地味な色合いになった。そうやって大人になった僕が伊勢丹をさまよって買った服がこれだ。

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MAISON KITSUNE'のナイロンブルゾン。

今の時期は前を閉めてコートの下に着れるし、春にはアウターになるし、ちょっと暑くなってきてもTシャツの上にさらっと羽織れる。クソ根暗文科系伊達眼鏡の僕はこういうスポーティな服をあまり持っていないので目先を変えてみるのにもちょうどいいかなと思った次第だ。

さて、それとはまったく関係ないが、僕は「MAISON KITSUNE'合コン最強説」という持論を持っている。

まず、デザインが普遍的でほどよくカジュアルで物がいい。加えて、MAISON KITSUNE'最大の特徴であるキツネのワンポイント。これが重要なのだ。かわいいよね、キツネ。

このワンポイントがすごくて、特にMAISON KITSUNE'を知らない女性でも「あ、キツネだ。かわいー!」となるし、ファッション感度が高い女性なら「MAISON KITSUNE'の服じゃん! やっぱり(物が)いいねー」となるし(ここから「センスがいいねー」とつなげるには着る人の努力が必要)、同席する男性からしてもMAISON KITSUNE'は嫌らしく見えないというか、高級時計みたいにいかにもな経済力アピールの記号にはならないし、ファッション感度が高い男性からも「お、キツネか、いいね」くらいで済む。なんでか知らないがMAISON KITSUNE'をマウンティングするファヲタは少ないですよね。なんでですかね?

要するに、MAISON KITSUNE'は合コンファッションにおける超八方美人の優等生ブランドなのだ。加点はあっても減点はないという稀有なブランドなので「合コンに行くんだけど何を着ていけばいいかわからない」と相談されたら僕は「ヤフオクでMAISON KITSUNE'のセーターを買え」と答えることにしている。そんな相談されたことないけどな。

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かわいい、キツネ

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ちょうど左乳首のあたりにキツネのワンポイントがくるセーター。女の子に触ってもらおう


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筆者: すなば
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