石川県・転職旅行記1

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「間違って入っちゃって」
 繰り返しの更新ですっかり印字のかすれたPASMO定期券を受け取った快活な女性駅員は、あぁ、と声に出さず呟いたように見えた。まだ若い。20代前半に見える。
「もう、戻ってきませんか? またきますか?」
 神妙な言葉遣いだな、と思いながら僕は「また戻ります」と言った。
 はい、と手渡されたPASMOを改札機に押し付け、僕は金沢駅を出た。

 11時24分発の北陸新幹線はくたか」に乗り込んだ僕は、最初車窓を眺めて王子の「飛鳥山公園モノレール」を珍しく思ったりし、のんびりと過ごしていた。駅弁は東京駅で買ってある。13時くらいになったら食べようと思っていた。
 トンネルが連続するようになると外を見ても詰まらず、スマホも圏外となり、手持ち無沙汰になったので荷物から本を取り出した。森見登美彦の『夜行』。先週箱根へ一泊旅行に出かけたとき、旅先で『夜行』を読むのもいいな、と思ったのだ。
 第一章を読み終わったとき、僕はかなり微妙な気分になっていた。『夜行』は、旅を巡る怪奇譚だ。共に旅行に行った連れ合いが、ふと目を離して視線を戻すともうそこにいない――という、悪い夢のような、とてつもなく悪いことが自分のあずかり知らぬところで起こってどうにも止めようがない、という、だだっ広い密室に少しずつ水が注がれていくような恐怖を味わえる名作であるが、これから旅が始まろうという行きの新幹線で読むような本ではなかったような気がする。
 一旦本を閉じ、僕は弁当を食べた。鮭のほぐし身といくらが半々でご飯の上にのっかっているやつだ。たぶん北海道あたりの駅弁だろう。ぽろぽろご飯からこぼれるいくらを助けながら、10分くらいで食べ終えた。
 隣にはちょっと口の臭い、フレームの細い眼鏡をかけた50代くらいのサラリーマンが座っていて、机の上で何かの図面に線を書き込んでいる。
 新幹線は、高崎から長野へと向かっていた。窓の外には田園が繰り返し現れては消えていく。息をついて第二章を読んだ僕は、自分の心がどんどん迷子になっていくのを感じていた。
 箱根では結局旅行記を書き切ることはできず、こうして新幹線に揺られながら景色を見ていても、ぼんやりとした情景が浮かんでは消えるばかりで、俳句に至っては詠む気にすらなれない。僕はこのままどうなってしまうのだろうと思った。
 もはや仕事を辞め、編集者という肩書を捨て、自分のメディアを立ち上げるという獏とした目標のために飛び込むWEBマーケティングの世界で、僕は何者かになることができるのか。昔、僕は世の中のことがほとんど何一つ判らず、自分に対してこれっぽっちの自信もなく、代わりに文章や詩歌は厭というほど湧いて出てきた。世界への違和感は噴出して止まなかった。
 いつからか僕は自立した、常識のある、人当たりのいい、ほどほどに気が利く、ただの男になってしまったのだろう。とは言え、そうなろうと願ったのは他でもない僕自身だ。どこでこの道に乗ったのだろう。大学に入る時、目標を「とにかくモテる」と設定した時だろうか。それとも、3年半付き合った彼女に命令され、車の中で自ら火の点いたタバコを己の左手に押し付けた時だろうか。あるいは、その彼女と別れた時? 就職が決まった時?
 考えても仕方のないことだった。今さらどれだけあがこうとも僕はモテようとし、超弩級のメンヘラと付き合い、そして別れ、就職をした。それはもう曲げようのない事実として、僕の背骨を支えているのだった。
 宿についたら、とにかく何でもいいから文を書こうと思った。旅行記でなくてもいいではないか。如何に創造性がすり減り、感性が死んでいったとしても、僕は文章を書くことによって生かされてきたのだし、これからもきっとそうだ。とにかく書くことで、僕は初めて今の自分の姿を見ることができるような気がしていた。

 いつの間にかうつらうつらしていて、僕は一人の女性に一所懸命に話しかけていた。会ったことのあるような、ないような、親しげなその人のことは目覚めると同時に殆ど忘れてしまっていた。明らかに『夜行』の影響を受けた夢だったが、夢の中の僕はたしかにその女性とよく知り合っていて、僕らが出会い、話すに至るまでの物語があるはずだった。それを置き去りにして、僕はまたこの新幹線の車内に帰ってきたのだ。
 30分くらいして、金沢についた。ここから七尾線に乗り換え、ローカル線に乗り継いで和倉温泉を目指すことになる。
 トイレに寄ったら乗るつもりだった14:29発の電車を逃してしまい、まぁ次のに乗ればいいだろうと思って路線検索をしたら次の電車は16:30発だった。にわかには信じがたい事実だったが、七尾に向かう電車は30分に一本、そこから和倉温泉へと向かうローカル線の本数はさらに少なく、2時間近くの余白が生まれてしまったわけだ。
 そういうわけで僕は駅を出て、駅前のスタバでこれを書いている。そろそろ電車の時間だ。

(つづく)