眠る前の話

何かやり残したことがあるような気がして眠る気になれないのに、体が勝手に非生産的なことを始める。漫然とスマホをもてあそぶ。文庫本を開いてろくに読まないまま机に置く。ソファの上であぐらをかいたり足を下ろしたりする。音楽を聞きたくなってスピーカーから流してみるけど、すぐにうるさく感じて止めてしまう。

夜は川だ。一秒ごとにじりじりと朝に向かって流れていく。川底の淀みの中にいる微生物のように、僕たちもその流れから逃れることはできない。

「この夜をどうしたいのか自分にもわからない」というときがあるだろう。眠ると何か大切なものがなくなってしまうような、もらえるはずだったお菓子がもらえなくなってしまうような気がして身動きが取れなくなるときだ。でも夜は流れているから、眠っても眠らなくても、どちらにしろ朝に流れ着いてしまう。流れ着いた先にもまた流れがあり、夜に向かって為す術もなく運ばれて、また同じ思いをする。

よくよく自分の身体に注意を向けてみると、そのもやもやの正体が分かる。そういう夜は胸がうるさい。目の細かい、柔らかな網が心臓にかかっているような気がする。それは自分が自分と話し足りていない合図だ。話を聞いてほしい自分自身が、寂しさに、もやのようにその姿態を変化させて心の奥を占めているのだ。

でも自分と話すのはけっこう難しい。自分と話すときに言葉を使うことはできない。独り言は自分と話すのとは少し違う行為だ。自分と話すことは、心臓にかかった靄(もや)に意識を向けて、その中に見えるもの、聞こえる音に注意深くなり、そこにあるものを感じようとすることでできる。

目は開けて、雑に座ってチョコレートでも食べながらするのがいい。自分と話すのは瞑想ではないし、自己啓発でもない。靄は脈絡なく語りかけるだろう。誰かが言った言葉とか、昔の出来事とか、脈絡のない思い出、まだもらえていない返事、遠くに住んでいるはずの人、傷ついた言葉、向かいの席に座っていた人の顔、昔住みたかった街、いつかほしいもの、といったいろいろを。

それらは全て、受け止めなくていい。ただ眺めていればいい。自分と話すとはそういうことだ。

夜は朝の水平線に向かって流れていく。流れながら、実体のある今は瞬間ごとに、過去の影絵に変わっていく。背後に連なるその幻燈が(中にはずっと後ろにいるものたちが)、ふいに光の靄を吐いて自分の胸をつかまえる。

それが眠れない夜に起きていることだ。

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筆者: すなば
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