「権力」の気配と丁寧な暮らし

COVID-19が直接あるいは間接的に自分や身の回りの人の生活を制限するようになってから、Twitterで呟くことがずいぶん減った。呟こうと思うことが何一つ「本当でない」気がしたのだ。

普段は何食わぬ顔でツイートしている生活や風物やカレーのことについて、そのことよりももっと大事な、言及すべきことがあるような気がしてならなかった。誰から求められているわけでもないけど、その何かを知らんふりしてツイートボタンを押すのは不誠実な気がした。

何に対して「不誠実」だと感じているのかは、僕自身もよくわからない。でも、「もっと大事な、言及すべきこと」が何かはなんとなく分かる。このところ否応なく肌に感じる「権力」の気配についてだ。

平常時は、自分の暮らしや大切な人たちの幸せ、いつか行きたい場所や週末の予定、自分が美しいと思うものや善いと思う行いなどに集中していればよかった。そうしてコツコツと日々を営むことが、自分の求める世界を創ることになると確信していた(この記事で書いたように)。

でも今、自分の暮らしや大切な人たちの幸せ、いつか行きたい場所や週末の予定、そういったものを考えるとき、否が応でも視線の先に横たわるのは巨大な「権力」の影だ。より端的に言うならば、政治・政策・国家といったものが、いま直接的に暮らし方や生き方を規定している。

今や世界中がそんな状況だ。その原因は感染症であって、「権力」にはない。また、この非常時において、経済活動に対して「権力」による統制が必要なのは疑う余地がない。だから良いとか悪いとかではないのだけど、とにかく、こんなに身近に「権力」の気配を感じながら暮らすことはそうそう無いだろうと思う。

だからこそ、「権力」に対して覚えた違和感があるとすれば、それも大切にしないといけないと思うのだ。

自身の築き上げた美しい生活が「権力」の庇護下にあり、その「権力」を監視する義務が時として自身に生じることを、正面から受け止めるのは残念ながら難しい。僕たちのほとんどは、そんなこと誰にも教わっていないからだ。

知識として三権分立や、国会運営の流れや、選挙の仕組みについては学ぶ。でも、自分たちの暮らしや行動が「権力」の下に規定されていることを、直接的に教わる機会は少ない。自由に暮らすことすら「自由に暮らすこと」を「権力」に保証されてこそ成り立っていること、生活は空気のようにそこにあるものではなく、「権力」と押し合う様々な力の均衡の上に成り立つ、ひとつの状態に過ぎないことを。

そしてその「権力」はしばしば暴走することを歴史が証明している。「権力」とは勢いよく水の噴き出すホースみたいなものだ。ちゃんと掴んで離さずにいれば、車も洗えるし畑に水もやれる。しかし油断して手を離すと途端に暴れまわって自分を濡らす。大事な靴が台無しになる。苦労して描いた絵をめちゃくちゃにされる。

政治というか、選挙について以前僕はこのように書いた。

ここでも僕は、「政治家」や「国会」「国家」ではなく「権力」という呼び方をしている。

何も国政だけではなく、「権力」は至るところに存在している。職場にも、学校にも、家庭の中にも、乗り合わせた電車の中にすら。その「権力」が自らに対してどう振る舞うか、僕たちは自分の幸せについて考えるのと同じくらい注意深くなければいけない。そして、手綱を握る努力をしなければいけないのだ。やっぱり。

疫病が天災であって誰か一人の故意ではないように、「権力」もまた人ではない、もっと巨大な何かだ。だから政治家や政策を批判するとき、それは「権力」の振る舞いに対する反発や違和感であって、特定個人への恨みつらみであってはいけないと思う。もちろん、政治家が「権力」のコントロールを職分とする以上、その働きぶりには責任が生じる。コントロールがまずければ顧客であり関係者である国民からクレームがくるのは当然だ。いわれのない個人攻撃と、自身に提供された役務への不満の表明は全然違う。

毎日誰かが誰かを批判する声ばかりで嫌になるという話も聞くけど、「権力」の暴走を抑えて自分の暮らしを守るための反発も、個人への批判に置き換えられたやり場のない怒りも、その中には混在している。それらを一緒くたに「気を滅入らせるネガティヴな空気」として処理してしまうのは、表現者がやってはいけないことのように感じる。

僕が名乗っている文筆家とは、文章を書き、それが読まれることに価値を見出している人間のことだ。その一人として、周囲から聞こえてくる声に耳をふさぎ、生活やカレーについて呟き続けることは違うと思った。だからこの文章を書いた。

僕の、個別の政策や政党に対しての個人的な考えはここでは表明しない。ただ、「権力」に対してのあり方をここに伝えたい。生活は「権力」によって守られるべきものだ。同時に、「権力」から守らなければいけないものでもある。

一人ひとりが日々を美しく送ることが、最良の平和活動だと僕は本気で思っている。でも、その日々の隣には「権力」があることを忘れてはいけない。「権力」とは「権利を振るう力」のことだ。その権利の中には、自身の生活や生き方すらも制限してくるものもある。生活を見つめること、丁寧に暮らすということは、その生活の枠組みに張り付く「権力」の気配を注意深く観察することも含まれる。

東京の桜は咲き切って、美しい布を翻すように新緑へと変わった。散歩する犬も心なしかみんな嬉しそうな顔をしているような気がする。無印良品のカレーはいつ食べてもうまい。本当は毎日、そういうことだけを考えていたい。多分、そういうことだけを考えていないと自分がもたない時もあるだろう。でも、僕はしばらく目も耳もふさがないことに決めた。今は「権力」の振る舞いを注視すべき時だと思うからだ。「権力」が自分をどうしたか、よく知る人に対してどんなことをしたか、しっかり見て覚えておかないといけない。

巡る季節をいつくしみ、旬の食べ物を喜び、大切な人との関わりを愛する、その幸せを得るために必要なことは何か。変わらない日常を愛する人ほど、考えるべきなのだろう。これはイデオロギーではなく、個人の幸福と生活についての問題だ。

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筆者: すなば
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